読書感想文

タイトル通り読書の感想です

文學界 2021年5月号 霊的世俗性──フーコー『肉の告白』論

フーコーであるが、入門書としての新書を読んだぐらいの知識しかない。しかも忘れている。パノプティコンぐらいなら知っている程度である。
申し訳ないがwikiネタを見ながらということになる。
「性の歴史」第四巻、肉の告白の邦訳についてである。
なんで、このことがトピックなのかというと、読んだ新書にも出てきたが、第四巻が出る前にフーコーは死去してしまい、しかも、封印されてしまったのだ。新書の段階では封印されたままの状態である。だから、待ち望まれていた、ということである。
ところで、なんで性の歴史かというと、たしか、「性」というのが、恣意的に作られたものであるから、そういうことだったかな。なんか思い出してきたぞ。
で、第四巻、第三章のアウグスティヌス論が中心であり、しかも、「性の歴史」全体の意味も明らかになる、ということであるらしい。
ちなみに、第二、三巻は、ギリシア・ローマについて触れられている。ここでは、キリスト教対古代は、罪責性対エコノミー(節制)という風に書いてある。これも思い出した。古代は、性に対して自由に何でもあり、ではなく、たしか、判断力を損なうような耽溺する性はダメなのだ。つまり、「節制」なのである。
ここで、フーコーの「性の歴史」は「精神分析の考古学」である、という言葉へ。精神分析というのが、医学、科学ではなく、権力装置、みたいなものだとか、そういうことだっけ。その精神分析の元祖が、カトリックの告解制度なわけである。
で、その告解制度を発明した人物こそ、アウグスティヌスなのである、ということだ。さらに、wikiネタからだが、性交を原罪としたのは、アウグスティヌスであり、告解と性交=原罪を結び付けると、ということになる。そこまで行かなくとも、つまり、性的な欲望をコントロールできないことが、原罪なわけである。それを告白するわけである。いや、告白する、のではなく、告白させる、のである。
アウグスティヌスの発明はつまり、主体を、意志的なもの、非意志的なもの、の二つに分割したことだ。
ここで急にフーコーから離れて、「禁止」の説明。「禁止」とはトートロジー、つまり、同語反復でしかない。「禁止だから禁止」なのだ、と書いてある。なんか急に唐突にそう言われても、と思うが、まあ仕方がない。さらに、性の抑圧が、この「禁止」と結びついている。要は、性の禁止には意味がない、と言いたいのかな。フーコーに戻る。
意志的なものが、非意志的なものを監視するわけだ。
その手法は、反省、自己分析、告白、ということだ。これを制度化したものが、告解ということだろう。
ここでまた、トポロジーという言葉。トポロジーとは、その存在を立証するもの、というか、認めるもの、というか、そういうことだ。
で、アウグスティヌスの発明したシステムが、近代的主体の仕組みになっていくわけだ。なんで、こんなに、キリスト教の影響を大きくするのかというと、ラカン派が念頭にあったらしい。ラカン派と言われてもわからないが、フロイトの後継者なのだろうか。とりあえず精神分析であるが、ラカン本人がキリスト教であることが大きいらしい。
つまり、「性の歴史」は「罪の歴史」であり、とすると、ニーチェの「道徳の系譜」ということになる。
ポリティカル・コレクトネスという言葉。特定の人々を不快にさせる原因をあらかじめ排除しておくこと、かな。看護婦を看護師にする。まあ、こういったことも、近代的主体の仕組みによる、と言いたいわけだ。
パノプティコンも同じ。絶え間ない、意志による非意志の監視がその土台にある。
これで暴力的な人も、自分が自分を常に監視していて、弱っていくので、世の中平和になるのだ。このシステムは支配権力に利用されえしまうことでもあるのだけど。
ただ、ことはそれほど単純ではない。反省が程度を越えると、世俗権力を否定して、革命的な爆発に結びつくこともあるのだ。たしかに、宗教改革とか宗教戦争とかあるしな。
ディオゲネスと言えば、樽のディオゲネスだ。あとキュニコス派。なにもいらない、一人だけで生きていく、という考え。こちらも権力を否定してしまう。これがキリスト教のラディカルな側面に繋がっていくのかな。
古代の節制は、あるところまでいけば、よしというところがある。ところが、罪責性、すなわち、精神分析には終わりがないのである。
では、そもそも性とはなにか。(フーコーは性について触れていない)
行動の可塑性という言葉。変形したらもとに戻らない、ということらしい。
性は自由度がゼロで、もう、それしかない。(食欲は様々なバリエーションがあるのに)。性が非意志的である所以である。どうしようもなく、性は生殖本能なのである。
スキゾ、分裂型、自由奔放に行動。戦争機械、非中心化的。生成変化、組み換え的変質(まったくわからないので仮に)。古代での、ある程度、とは何を基準にしているのだろう。それはそれで、また、規範といったものとは違う種類の、なにがしかのものがあるということだろう。
そのグレーゾーンの部分を、ここでは「霊的世俗性」と呼んでいる。日常ということだろうか。なんか吉本隆明みたいになってきたぞ。
セネカの反省」は、今日一日、こういうことがあったな、ということである。自分を分析したり、罪を責めたり、ではない。
実にいい、とか、私は選びたい、とか、書かれているけど、いまいちわからない。
谷崎潤一郎の陰翳礼讃みたいなものだろうか。
ライプニッツモナドジーは無意識ということか。習慣だね。
既存の言語体系に基礎をおきながら、これを超えた新しい言語宇宙の創設者としての「サド、フーリエロヨラ」面白そうな本だ。
マゾッホ、法、あるいは法の強制力を解体する、自由。その変換がフィクションかな。
古代人フーコーというのは、なんとなくグレーを理解しようとするフーコー、ということかな。