読書感想文

タイトル通り読書の感想です

日本近代短篇小説集3 岩波文庫 群猿図

三人称神視点ということか。歴史小説である。神というと誤解がある。テレビ視点とでも言った方がいいかな。
とにかく歴史書ではなく歴史小説なのである。
犬筑波集。都より甲斐の国へは程遠し御急ぎあれや日も武田どの。そういう歌があって、ここに出てくる武田は、誰なのか、ということである。
犬筑波集とは何だろうと調べてみるも、室町時代後期の俳諧集と載っているぐらいで何のことかよくわからない。歴史書であれば、わからなければダメだが、歴史小説の場合はいいのだろう。
小説が出た当時は、それなりに知られていたのかもしれない。いまなら室町後期の、とか説明が付け加わってもいいと思える。
意味は、武田氏よ、早く京に攻め上ってこい、といった風か。
年代的にみると武田信虎の可能性が高い。「妙法寺記」大永6年。御屋形様在京めさると風聞す。
誰かが犬筑波集に付け加えた可能もある。もしそうなら、その誰かは武田信虎だ。
故郷の付近でまごまごしている野心家の息子を、内心、せせら笑っていた。
武田信虎連歌師、柴屋軒宗長の弟子だった。
父親の方は、息子に比べると、ひどく評判が悪い。悪大将、狂気人。まことに情けない月並みの悪事しかはたらいていないからだ。
信廉もまた、信虎の伝記作者たちほどではないにしても、やはり、いくらかかれの父親の邪悪な一面だけを強調しすぎているのではなかろうか。
いかに悪逆無道の父親であろうとも、息子でありながら、その父親を追放するとは、それこそ悪逆無道の最たるもの。
信虎が駿河におもむいたのは、信玄と合意のことであって、かれら二人は、たえず相互に連絡をとり、協力して今川氏をほろぼそうとしたのだ。
甲斐国志のおなかに収録されている今川義元の信玄へ出した手紙を引用した。
甲陽軍鑑三河風土記。かれとかれの息子とが合意の上でうった芝居であるといえないこともない。
ひそかに、信玄と連絡をとりながら、今川家乗っ取りの陰謀をたくらんでいたことは、まんざら、うわさばなしでもないようにいえる。
信虎は、あくまで信玄の味方のようなふりをしながら、息子の駿河侵入の直前に、ひと足さきに都へのぼり、こんどは将軍義昭に近づいて、上杉・北条・織田・徳川等々の大名たちをたくみにあやつり、息子の上洛を意地悪くさまたげた。
そういう父親の心のうごきは、どうやら息子のほうも、十分、感づいていたらしいのである。
にもかかわらず、やはり、かれは、父親の忠告にしたがって、その年、駿河に侵入しないわけにはいかなかったのである。
わたしは、あえてクーデター説をとり、それ以降の信虎の生涯を信玄にたいする復讐のためについやされたとみるのである。この「わたし」が神視点である。「わたし」を隠してしまえば今風の歴史小説になる。
逍遥軒記。信廉の晩年の日記。その日記のはじめのほうに登場する信虎のすがたには、かなりのリアリティがあるように思われる。
信虎は、まったく手のつけようのない昔ながらの意地悪じいさんである。
信玄のおかげで、人生の裏街道をあるきつづけなければならなかった境遇の点においても、かれら二人は、すこぶる似ているのである。
彫刻にもたくみだったかれは、桃のたねから、猿のかたちを彫ったことがある。
風林火山。つまるところ、それは、猿のむれのたたかいかたなのである。
無数の猿のむれがおり、田畑の作物を、あらしまわっていた。猪のむれは、猪垣でなんとか防ぐことが出来た。
猿や猪が、いかに当時の人びとから憎まれていたか。
しだいに自分もまた、猿のむれの指導者のようになりたくなったのではなかろうか。意地の悪い人間の特徴なのである。
土豪や小領主や地侍によって嫌われていた信虎のほうが、客観的にみれば百姓たちの役にたっていたのかもしれないのだ。
卑怯だとみられることをおそれなかったからかもしれない。猿のむれのヒエラルヒーは整然と組み立てられている。
信虎は、ただ、猿のハレムをつくろうとしただけのことなのだ。
まず、まっさきに、はなれ猿になってしまったのが、かれ自身であった。
信虎の期待はみごとにはずれてしまい、歌人としての鼻息は、ますます、荒くなり、例の猿の啼き声はあわれだといったような陳腐な和歌をつくることが流行しだした。
家来のなかから適当な人物をえらんで、御伽衆と名づけ、かれらのはなしをきいて夜をすごしたものである。
猿のむれの優秀さを知らない人びとは、こういった現象をとらえて、逆に猿真似というかもしれない。
猿知恵とは、猿のむれの知恵のことであって、むれからひきはなされた一匹もしくは数匹の猿たちの知恵のことではない。
百姓たちの憎悪の対象だった猿は、同時に畏怖の対象でもあり、厩の守護神として祭られていたのである。
猿のむれにならっていうならば、まず、若者猿のおぼえなければならない仕事は物見なのだ。
信虎の猿中心のものの見かたを、不肖の息子は、あくまで人間中心のそれに置き換えようとするのである。
甲斐の国に城らしい城をつくることを禁じたのは最初の人物は、息子のほうではなく、父親のほうであったからだ。
彼女の巴気どりは、いつの間にか、ハレムのなかにも知れわたり、人びとは多少の皮肉をこめて、彼女を、巴殿というようになった。
意地の悪いかれのことであるから、その猿を使って、私憤をはらそうといったようなつもりがあったのかもしれない。猿の多い甲斐の国においても、これほどの大猿には、まだ誰も出会ったことがなかった。
グルーミングを要求しているのであって、猿としては最大の友情の表現なのである。信虎は、すっかり、得意になって、いずかに猿の腹をかいてやった。
いまやその竹の林に、虎とともに猿が住むこととなったのである。
どうやらかれは、猿に踊りを教えているらしかった。
信虎は猿に芸を教えこむことにも飽きると、猿を相手に兵法の稽古をしだした。
人間の社会にあって、人間よりも猿を支持するものが、三界に身の置きどころのない境遇におちいるのは当然のことではなかろうか。