読書感想文

タイトル通り読書の感想です

群像 2021年5月号 導くひと

視点は、一人称一元視点である。
視点である人物の描写に注意しなければならない。なぜなら、視点の人物そのものが小説世界を構築しているからである。
一ノ瀬さんがいなくなりました、という言葉で始まっている。言葉を発したのが主人公である。言葉を伝えたのは芹澤良子である。
彼女はテーブルの向かいに座っていて、視線を落としたままなのだ。
そのあと、一ノ瀬さんからは? とぼくが、続けて聞くと、いいえ、まったく、と彼女は答えている。
彼女は困惑していたが、きっぱりとした口調だった。
ぼくは、その答えを予想していたが、がっかりした。ただ、急行列車の酔いから解放された、とある。とすると、この場所に電車で来たのだ。
梅雨の晴れ間。おそらく、初夏に近いのだろう。梅雨の雨がずっと続いているはずの時期だからだ。その晴れ間、なのだ。
真っ昼間、なので、いっそう暑いのだ。真っ昼間、これは、平日か休日、どちらかと言えば、平日のような気がする。
ぼくは、芹澤良子よりも顔が青ざめていた。聞く側の方が聞かれる側よりも、切迫しているのだ。問い詰めている、といった関係ではないのだ。
あなたと一ノ瀬さんはご一緒に働かれていたのですね? ぼくは芹澤良子に訊く。ぼくには、少なくともその点に関しては確証はない。
7年前は一緒に働いていた、と答える芹澤良子は視線を合わせない。
ふぐ屋さんでしたね?
芹澤良子は頷いただけ。芹澤良子は、ぼくに対して心を許していない。
一ノ瀬さん、その日々は人生のブレイクタイムだったのかも、そう言っていた。ぼくと一ノ瀬さんは面識があるわけだ。
ブレイクタイム、休憩時間。
芹澤良子ははじめてぼくの眼をしっかりと見据えた。
ぼくはやっと緊張がほぐれてきた。芹澤良子も困惑の色が褪せてきた。彼女の中から懐かしさの感情が沸き起こってきた。
わたしと一ノ瀬さんが働いていたアルバイト。つまりふぐ屋、ということ。
芹澤良子が語り出す。
彼の第一印象、静か、実際、静かだった。
他のアルバイトの子たちよりも歳が上。芹澤良子も同じ。
新橋にある大手チェーン、とらふぐ料理店。アルバイト、高校生から大学生。
芹澤良子はおばさん、はぐれ者。
まわりの青春の雰囲気が苦手なので23時から翌朝5時まで働いた。
一ノ瀬さんも同じ深夜帯のシフト。
男性スタッフには更衣室がないのでバックヤードで着替えていた。
23時10分前。水曜、週の中日で客足は鈍い。
中年に差し掛かっている男性がいた。新人が来ると聞いていたので、この人かと思った。
店長が青龍を呼んだ。店長は、一ノ瀬さんを紹介したが、なにも喋らなかった。
それからも一ノ瀬さんは喋らなかった。
五階から下の階へと掃除していくのが仕事だったので喋らなくても支障はなかった。
パントリー。キッチンに付随する収納スペース。
青龍はパントリー担当の清掃だったので会話は不要だった。青龍も同じようなものだった。
ディナータイムなら、バイトリーダーや社員から叱責の声が飛んできただろう。
閉店時間は5時。たいていきっちりと終わる。
三階まで客がいた。一階は店長、二階は、芹澤良子。三階は一ノ瀬さんになった。はじめて一ノ瀬さんが喋った。
客の前で雑炊を作る。芹澤良子は三階に行った。一ノ瀬さんは普通に対応した。
接客ありのふぐ屋に応募するわけはない。
一ノ瀬さんに話し掛けたがじっと見詰めるだけだった。
勝手に仲間意識を抱いて話し掛けた。言葉の暴力になってしまった。
続きは後で、と芹澤良子は、店を後にした。
メール
芹澤良子にとっても、ふぐ屋で働くことは、人生のブレイクタイムだった。
それ以来、一ノ瀬さんを避けるようになった。
着替え終わったあと、男性スタッフの姿はなかった。
一ノ瀬さんが坊主頭であることに初めて気付いた。シャツ一枚にコーデュロイパンツの普段着。
寒くないですか? と思わず言葉に出した。
一ノ瀬さんは、ニンニクですから、と答えた。芹澤良子にはまるで意味がわからなかった。