読書感想文

タイトル通り読書の感想です

日本近代短篇小説集3 岩波文庫 二世の縁

視点は、一人称一元視点である。
縁側に膝をついて、切り張りの障子の中へ、先生、入ってもよろしゅうございますか、と私は声をかけた。
「私」は聞き役なわけだ。
私はそっと障子をあけてオーバーのまま部屋へ入った。
部屋に入ったところからストーリーが始まる。逆に言えば、ストーリーを終わらせたければ部屋の外に出ればいいだけだ。それに聞き役であれば、当事者間はない。いかにもポジションとしては、いいのである。
病人の寝床の汚れているのはわびしいものだが、老人の場合には一層である。みじめさへの嫌悪にすり替わっている。
私も先生のと同じ校訂本「春雨物語」を机の上にひらいて、59ページ、二世の縁……はじめからでございます、と言った。
殆ど渋滞することなく述べつづけられる「春雨物語」の第五話まで筆記の筆を進めてきた。
封建時代の道徳からはみ出している作品が多く、なるほど「雨月」のように世に行われず、伝わらなかったのも尤もに思われる。布川先生も夫人にはさき立たれ、一人の令嬢も殆どよりつかない。
私は頻りに秋成の晩年と布川先生の現在の生活との間に共通したものを感じる。
古曽部という豪農があった。夜は更けるまで灯火に書見するのが毎日であった。
窓をあけてみると、晩い月が中空に上っていた。墨をすり流し筆をとって一句二句、思いよって首をかしげ考えている中、鉦の音らしい響きの交って聞こえるのに気づいた。
草も刈らず叢になっている庭の片隅の石の下らしかった。
下男どもを呼び集めて、その石の下を掘るようにいいつけた。
重い蓋を大勢して持上げて中をみると何やら得体の知れぬものがいて、それが手に持った鉦を時々うち鳴らしているのだった。
魂はすでに仏の国に入って躯だけ腐らずこうしているものか。
この乾物を大事に扱うので、湯水を与えるごとに念仏を称えるのを怠らなかった。
何のこともないただの人間であった。
全くこの辺りの百姓の愚鈍に生れついたものの有様そっくりである。
高徳の聖を再生させたと喜んだのに、後には下男同様に召使うようになった。いたずらに形骸ばかり甦ったとは何たることか。
戦後の十年を幼い男の子一人を抱えてかうtかつ生きているわびしい戦争未亡人である。
昔、私に頻りに言いよったあくの強い布川先生が今隣の病室で、弱々しい排泄の努力を懸命につづけているのを見ると、危く涙ぐむほど心を揺さぶられるのであった。
参詣の美女にふと執心して成仏しかね、55年の後も未だ鉦鼓を叩いていたという話である。
下男仲間も近所のものも尊げに扱う風は微塵もなくなって、定助とつけて、5年ほどの間この家に召使われていた。
その家の婿になるがよいと誰も誰も苦笑いしながらすすめ立てて、定助はついにこの女の夫になった。
さては浮世に今一度生まれ変って男女の交わりを果したい執念であったのか。
入定の僧の棺がどうしてそこに埋められていたのかなど調べる道は絶え果てる次第であった。定助の過去についての不審は一向に晴れないのであった。
定助は生まれかわって、妻を貰ったではないか、二世の縁を果たそうとの仏の御思召しかも知れぬ。
私は馴れているので暗くても大方畑中の細い道を歩くことにしている。
定助という不思議な男のことが生きている人のように生々しく心に浮かび上がっていた。
孤独窮迫の生活の中になお創作の衝動に劣らず性の欲望の埋み火のように消えがたく残っているのを、この「二世の縁」を書いたのではあるまいか。
高徳の聖であったかもしれない男が、痴鈍な男に成り変りながら、前の生活で果たせなかった性への執着だけをともかくも一人の女の身体をかりて果たすという結末に作者の性欲の怪しさを暗示しているのではあるまいか。
この男は狂人ではあるまいかと私はふと思ってみたが、そのことは少しも彼に抱きかかえられている異様な快さを減らしはしなかった。
布川先生がこの人? と思った瞬間私の声はまるで違った言葉を叫んだ。定助! 定助だ! これは……
定助がこの男たちの中に生きているのを私はたしかめた。それはさっきの恥ずかしい幻覚以上に、私の血を沸き立たせた。