読書感想文

タイトル通り読書の感想です

日本近代短篇小説集3 岩波文庫 驟雨

視点は、三人称一元視点である。
主人公と思われる人物、あるいは、その人物と密接に関わる人物との、ある時点での回想ということになる。小説世界を誰が構築しているかということに注意しなければならず、その手掛かりは、誰が全知であるかということである。
ある劇場の地下喫茶室に山村英夫が行こうとしているのだ。ところが、舗装路に行き交う人々に邪魔されて、のろのろとしか進むことが出来ないわけである。
日曜日の繁華街、ということだ。平日ではないとすると、勤め人であろうか。
酷い混雑だが、苛立ったりはせず、押されるがままである。エスカレーターに乗っている気分、ともある。余裕があり楽しみでもあるのだろうか。
ズック、粗い麻織物。厚いズックの布地、赤と青の縞模様の日除け、時計屋。
約束の時刻は午後一時。時計屋で時間を確かめようとしている。腕時計を持っていないのだろうか。
夏の終わりの強い日射しに慣れた眼。店の中は薄暗かった。その時間に起こることが不明確なのだろう。
しかも、店内の時計は思い思いの時刻を示していた。さらに人が押し寄せて来るので立ち止まることは出来なかった。
胸がときめいていることに気付いた。
ときめくということは予測していなかった。まるで恋人に会いに行くみたいだ。
これから会うはずの女。魅惑的な体をを持った娼婦。
その女を気に入っていたが、愛するとは別のことだ。
愛するということは、自分の分身をもう一つ持つこと。自分自身の顧慮が倍になること。煩わしさが倍になること。
故意に避けていた。
恋人に会いに行く感情は、彼を不安にさせた。
待ち合わせの経緯を思い返した。
一か月前、娼婦の町にいた。好もしい女がいたので、女の部屋へ上がった。
映画雑誌のグラビアから切り取られた女優の写真。北欧系の冷たい顔。大きな眼に青白い光を感じさせる。
トリミングすることで、その娼婦は女優の眼に青白い光を灯した。その光は、この町とは異質な閃きを感じさせた。
湯呑みを起こして茶を注ごうとした。指の佇まいに、女の過去の一齣が映し出された。
茶の湯を習ったことがあるね。どうして、そんなことをお訊ねになるの。
咎めるような口調で言い、眼が力なく伏せられた。
興味を惹かれた。だが、それはこの町と女とのアンバランスな点だけ。よその街にこの女を置いたら色褪せるはずだ。
もっと娼婦らしい女の方が適当だった。遊客としてはそう感じた。
果たして娼婦に相応しくない慎み深い趣だった。
女の体を彼は気に入った。飽きるまで幾度か通うことになるだろうと思った。
勤務先の汽船会社の仕事で、翌日から数週間、東京を離れる。
いつ、お帰りになるか、旅行先から手紙をくださいませんか。
教え諭すような口調、幼稚園の先生の類を連想させた。
その記憶によって、旅情と相まって手紙を書くことになった。その土地の旅館で待ち合わせの日時を便箋に記した。
白昼の街中にその女を置いて、その女の余情を消してしまおうとも思っていた。
自分が書き送った一方的な逢引の約束を娼婦が守るかどうか。そういう興味にしておこうと考えていた。
女はすでに座っていた。
感情の高ぶりが続いていて言葉を出しかねていた。
わたし、義理堅いたちでしょう。女が言った。
毎週、金曜日のお昼に会う客がいて、魚料理を食べに連れて行ってくれる。言葉の陰影が伝わらないように付け加えた。
まるで、求愛して拒絶されたような按配だ。時計屋で潜り込んできた感情の帰結であることに驚いた。
現在の彼は、遊戯の段階からはみ出しそうな女性関係には巻き込まれまい、と堅く思い込んでいた。そのために娼婦の町を歩いた。
平衡を保とうとしている彼の精神の衛生に適っている。
あなたが好き、という女の言葉、それに続く行為が保証されているので、そのまま受け取っておけばよいわけだ。
あなたとお会いしていると、恥ずかしいという気持ちを思い出す。
なるほど、商売柄、いろんな言葉を知っているね。遊客に戻れた。
猥談が弾んだ。
僕の友人たちを紹介しようか。女は口を噤んで、睫毛を伏せてしまった。
眼の前の女を彼一人で独占できないということを自分に納得させようとしていた。
操を守るということ。娼婦の場合、どういうことか解釈できない。オルガスムスに達しないようにする。
操を守ってもらうような男にはなりたくない。
ずいぶん、取り越し苦労をしているのね。
彼は、もう一度、女を娼婦の位置においてみなくてはならない。女をホテルに誘って、その体を金で買ってみよう。
女の眼が濡れた光に覆われているのに気付いた。恋をしている女の眼の光に似ていた。
女は彼の視線に気付き、顔を上げると笑い声を立てた。その笑い声は不意に消えて、寂しい表情が女の顔を覆った。
誘いの言葉が、彼の唇でとどまった。
今度お会いするまで、わたし、操を守っておくわね。
女が固有名詞となって這い入りこんできた。封筒の宛名の「道子」という女の名。
晩夏から秋が深くなるまでの約一か月半の間、山村英夫は、道子の部屋で朝を迎えた。
月給の前借、水心子正秀の銘刀を金に替える。
道子の傍らの見知らぬ男たちを排除する以外に方法はなかった。
背の高い女が彼の耳元で囁いた。「首筋のところを摘まんでくれない。早くお客があるおまじないさ」
道子がこの店に来て二年、最古参になってしまった。
裏木戸を開けようとしたら、彼の眼前に老人の顔があった。来年の運勢暦だから買ってくれ、と言った。
思わずポケットの金を探って買ってしまった。道子ははやく自分の運勢を調べてくれと言った。
その冊子をめくって彼女の星を探した。そのときはじめて、道子が四つ下の年齢であることを知った。
暦を信じていないにもかかわらず、彼は良い星を彼女のために願っているのに気付いた。
街は夜とはまったく変貌して、夜にはなかった触手が伸びてきて、彼の心に搦み付こうとする。
紅灯の巷、花柳界に棲む女。
大盛運とあって安堵の感を覚えた。道子はそれを見て、控え目な笑顔を示した。
彼はこのとき初めて、彼女の笑い声に哀切の翳を見た。
どうせ廃めるならキッパリ縁を切りたい。貯金がもっとできたら、花屋さんをやりたい。
自分は道子の花屋へ何の花を買いに行くだろうか。
廃めたひとたちのほとんど全部が、また戻ってきていますものね。
隣席の古田五郎が白い角封筒を差し伸べてきた。
この男とは麻雀と娼婦の会話だけだった。
上役の娘との縁談が起こり、にわかに素行を慎みはじめた。
結婚披露宴に出席してもらいたい。
華燭の典が結婚式。華燭の宴は宴会。民謡の歌手の作品にある。
結婚式の前夜、山村英夫は娼家の一室にいた。恋慕の情に近くなっているかのような風情。
気を許してはいけない。カレンダーに印をつけようとしたら、他のお客さんがヘンに思うから。
狭斜の巷。遊郭のこと。ほとんど変化していない。
早く、あなたに可愛らしいお嫁さんを見付けてあげなくてはね。その言葉の意味は何なのだろう。
ぼくはまだ独身だよ。道子は不意を打たれた顔になった。輝き始めた女の瞳を見て、彼の心は不安定なものに変わっていった。
彼女を愛してしまったいまは、道子が娼婦であることが彼の心を苦しめた。
端座、正座。ずっと以前から道子とこのような朝を繰り返している錯覚。
日光がフットライトのように直射した。
皮膚に澱んだ疲れがあさのひかりにあばき出され、娼婦の顔が浮かび上がるのを待っていた。
道路の向う側に植えられている一本の贋アカシアから、夥しい葉が一斉に離れ落ちている。激しい落葉。まるで緑色の驟雨であった。
一瞬のうちに裸木になってしまおうとしている。
東京駅のプラットホームに取り残された山村英夫は、道子という女に傾斜している自分の心を見詰めて、しばらく佇んでいた。
自分の心に消し難い嫉妬心が動いているのを、彼は鮮明に感じてしまった。
嫉妬を飼い馴らして友達にすれば、それは色ごとにとって、この上ない刺戟物になる。
ハッハッハッという笑い声は、古田五郎が商取引のとき連発する笑い声の抑揚であった。
彼の心象の宴会の風景は、不快の色を帯び始めた。
一番最初の問いである。では、主人公である山村英夫は、どの時点で、この小説世界を構築したのだろう。
最後の、娼婦である道子に嫉妬した、ということであるから、山村英夫が普通に結婚して家庭を持った時点であろうと思われる。
いい思い出なので、道子をいい女に描いているわけだ。