読書感想文

タイトル通り読書の感想です

日本近代短篇小説集3 岩波文庫 黒い裾

視点は、三人称一元視点である。
主人公と思われる人物、あるいは、その人物と密接に関わる人物との、ある時点での回想ということになる。どの時点か、というのは、最後の結末で判明する。小説世界を誰が構築しているかということに注意しなければならず、その手掛かりは、誰が全知であるかということである。
16という若さ、で始まる。16歳は若いから若いと言っているわけでは、もちろんない。そうなら書く必要はない。16歳という年齢では若過ぎる、と思われる、境遇にいるのだ、ということである。
緊張でぎくしゃくしていた、となるのは、若過ぎるから、もっと言うなら、年齢不相応から来るのであろう。
千代ははじめて人の集まる場処へ母親名代で出て行く。母親名代、ということは母親の代わりであるから、母親はいないのかもしれない。
人の集まる場処、というのは、伯父の葬式であるらしい。
大人並みの手伝いをしてのけるつもりだった。年齢相応なのが、大人、ということがわかる。
気ばかり張って、お寺へと歩いて行った。向かった先は寺なのである。
齢不相応に地味な着物、新しい足袋、草履の鼻緒に黒いきれ。喪服のない肩身の狭さ。貧しいというのもあるが、確かに年齢的に喪服はないだろうな。
いかにも片親育ちのしっかりした娘。やはりちぐはぐななりはもたついていた。
お寺の門へ行くと、よその葬式がまだ済んでいなかった。
七月末の旱続きの太陽、寺全体は岑閑と照り付けられていた。式は2時。今は11時過ぎ。たっぷり時間を計算したのだがよその葬儀があろうとは予想していなかった。
天幕を見るとうちのだった。千代はがっとひとりで赧くなった。伯父の葬儀は格の上がったものだと知った。
天幕の三人が視線をこちらにあてていた。三人が立っている受附。
今日は皆さまご苦労様に存じます。私、母に代ってご用いたしとうございます。
男たちは返辞をしてくれず、双方困ったことになった。
受附を廻ろうとし、「あ、いけねえ。」言ってしまって、たちまち顔の道具が一斉に崩れててれる。実は僕もゆうべ悔み受けの挨拶をおしえてもらったんだけど。
千代は、あの馴々しさは誰だろうと思った。
やがて、伯父の婿、長女の嫁いだ酒井さんが乗りつけてきた。まずこの一族きっての婿の第一位、誰よりもいちばん目を置かれている人だった。
親類が早めに集まって来はじめ、お茶版はせわしくなった。間合いを測ることを知った。間合いよく給仕ができさえすれば、人は茶碗へすぐ口をつける。千代は、この忙しい酒井さんがもしかしたらいちばんお茶が欲しい人かもしれないと考え付いた。
手伝うというのは役に立つ場処を見つけ出すことだと合点した。
喪主と近親がぞろぞろ控室へ入った。昂奮の気配が渦に回り出した。千代はまったく巻かれて、ばかの一つ覚えにただ湯を絶やすまい、いつか自分が軸になってお茶番の女たちを動かしていることは知らなかった。
同年輩の従兄弟はとこと一緒に並んだ。働けたという自覚からゆったりした心であり、あたりのものが素直に眼に映った。
7、8時間ぶっ通しに傷めた神経と体に夕風が吹き抜けた。
百ヶ日が明けて秋は深く、酒井桂子から手紙が来た。あの日特別働いたものだけで集まろうというのだった。
劫は思った通り酒井姓。
紋服の用意がございません。まったく千代さん立派だった。千代は少し悔しかった。劫はよさない。
たった一人混じったよそ者である千代をあたかも一座の娘のように暖かく包んだ雰囲気だった。
それが齢とって振り返って見るようになると、若い時のよい記念だったという気がして来る。千代さんの16歳の記念とでもいいますかな。
けれども葬儀は終わったのでなくて、実は千代と葬儀とのつながりがこの時から始まったという方があたっていた。
祝儀には行かないでいられても不祝儀には人情が搦む。伯父のときで母親名代の試験済みになっていた千代は、早速通夜にやられた。
よほど下手に出てあちらを立てないとまずいことになる。劫は耳打ちした。
いい加減で帰った方がいいかもしれない。改まった挨拶なぞするとかえってひっかかるといけないから。大人めかしいことを言う。
あれから半年にしかならないのに、落ち着いてきた。
さほど親しみのない人の葬儀を相次いで二つ手伝ったことは女のタッチする範囲を大づかみに認識するのに役立った。急速に葬式の雑知識が身に付いていった。
卒業祝いはいらない代わりに喪服をこしらえてくださらない。
そんなもの、あてなしにこしらえるもんじゃないのよ。
黒く光る着物に手を通す。
羽二重はさすがに着心地がひきしまっていた。たとえ喪服でも新しいものの嬉しさ。
今まで手伝ったどの葬儀より心にじわじわ沁み込む悲しさがあった。亡くなった人その人の薄倖が傷ましいのか。
千代の方は勤めを持った。結婚はどんどん後れ、あわれに清々しい処女が残った。女も25を越すと、花やかさは薄れる。そんなときに黒はいちばんよく似合う着物なのだ。
いならぶ女たちからひときわずば抜けて光る黒羽二重の人だった。
しばらく会わないけど、あのかたに会わないのは、お葬式がないということと同じなんだわ。
久しぶりに見る劫、変わらないのは例のおしゃべりと愛嬌と、そつのなさだった。
成功途上にある人の得意さはよほどきびしく押さえているらしかった。
千代の結婚は、結果において失敗だった。
生活力の薄い男は、所詮優秀な女房とうまく行けなくなった。
親類へも知己へも音信不通の状態で10年が過ぎた。その逼迫の形見に喪服だけが残っていた。
喪服は、夫の死で何年ぶりかで千代の肩にかかった。
一年置いて、喪服はまた役立った。夫の死ぬ時、脈をとってくれた医師の死だった。
静寂にして盛んな葬送だった。焼香を済ませて電車通りへ出ると、劫がいた。
あなたと楽しい席で会ったのはたった一度だけ、酒井のうちでの慰労会。あのころは、葬式もなんとなくおもしろい他人事だなんて思っていた。
そんな最中に、訪う声が劫のものだった。酒井さんがやられたから、今すぐいっしょに行ってくれという。
この土地は土葬の習慣なので、焼場は遠い松山のなかに窯一つというのしかない。
窯から引き出して、トロッコ様のものに載せると、手荒く引き出していく。鬼婆の引く火の車の地獄絵さながらだった。
焼け残った家で千代は喪主になっていた。母を送ったのだ。
酒井さんの三年が過ぎて、桂子が上京した。劫さん、行方不明なの。
劫の罪名はいくつも挙げられていた。あちこちに隠れ回った挙句、郷里のすぐ近くにある海岸の崖鼻まで来て、そこから消えているのだった。
最後の長上である叔父が亡くなって、きょうその葬儀だった。
裾は透切れして、裾芯の真綿が鼠色に汚れて、たるんだ吊橋になっていた。
十分に大きく鋏の口を拡げておいて黒い裾へ噛ませた。抵抗のある音がじょきりとした。
大鋏をふるって黒い喪の着物の裾を裁つ。生きている人へ葬儀のまぼろしを見せてしまった。
血縁の目上は今日の叔父で最後。もう私には送る人がいなくなった。喪服一代は女一代に頃あいなのかな。
劫さん、葬式の時だけの友達。
葬式の時だけ男と女が出会う。
葬式の、人が死んだということの、落ち着きがここの屋の根に訪れ始めているなと感じた。