読書感想文

タイトル通り読書の感想です

日本近代短篇小説集3 岩波文庫 帝国陸軍に於ける学習・序

三人称神視点である。
論文ではないので、視点は神視点なのである。
勤務先の役所での昼休の軍事教練である。
たちまち一個の数に抽象され、人間の安物に具体化される。教練を受ける方は三等兵に他ならない。
軍隊にひっぱられてやっと二等兵になる代物である。
例え上等兵位であってもその命令は三等兵の前では朕の命令である。朕の命令がいかに垂直に人間関係を貫き通すものかを手痛く我々は知らされる。
とにかく長ろつく奴の命令は朕の命令にほぼちかくなってきていた。
いつ召集が来ても不思議ないというような感じ、つまりはあきらめが何となく出来上がりそうなのである。
聖戦の聖がどうにも判らないからであるが、判らんと悪いような気もしないではない。
これはもうアカン、聖戦も判り、鬼畜米英も判り、日本精神も判る気にならんとアカンぞと腹の底から震え上り、その癖、憲兵が憎くてかなわないのである。
一人の人間の力ではどうにもならん。それまでせいぜい酒をのんで気楽にしているよ。その点あんたなんかと違って医者は特権階級だからね。
わたしのやり方に不平のある人は出て来い、雌雄を決しよう、と彼は言った。
役所と資本家とのなれ合いで徴用工が製造されるのである。
やって来たのは教育召集令状であった。やれやれやって来たぞ、徴用よりましじゃわいと一応満足であった。
落ち着くべきところへ落ち着いたのだ。ところがそうではなかった。
つまり三十代四十代の初年兵を、二十代初めの古兵連中の私的制裁にさらすわけにはゆかないのである。
正しくわれわれはタルンでいた。入営する前からタルンでいた。
何も連隊ですべての訓練をすませなくてもいいではないか。野戦にゆけば否応なしにあんな所ぐらい渡るようになる。准尉はこの連中の召集が早く解除になって帰ってしまってくれたら良いと思う。
わたしはわざわざ将校の資格で忠孝をやらなければならぬ理由がなく、やりたくない理由ならザクザクあった。
そして一日一日がそのように流れて行って一生がたってしまう。その後には不忠も不孝もないだろう。
野戦行きに編成されることがどうして強迫になるのか一向に判りはしていなかったのだ。
っこういうお前たち不届きな兵隊は第一線に出て行くがよい。
何という私意による編成、懲罰的編成であろう。困っている者が損なくじを引く。それが運命をいうものだ。
懲罰流罪的第一線出征の発想にわたしは全く口あんぐりであった。

日本近代短篇小説集3 岩波文庫 群猿図

三人称神視点ということか。歴史小説である。神というと誤解がある。テレビ視点とでも言った方がいいかな。
とにかく歴史書ではなく歴史小説なのである。
犬筑波集。都より甲斐の国へは程遠し御急ぎあれや日も武田どの。そういう歌があって、ここに出てくる武田は、誰なのか、ということである。
犬筑波集とは何だろうと調べてみるも、室町時代後期の俳諧集と載っているぐらいで何のことかよくわからない。歴史書であれば、わからなければダメだが、歴史小説の場合はいいのだろう。
小説が出た当時は、それなりに知られていたのかもしれない。いまなら室町後期の、とか説明が付け加わってもいいと思える。
意味は、武田氏よ、早く京に攻め上ってこい、といった風か。
年代的にみると武田信虎の可能性が高い。「妙法寺記」大永6年。御屋形様在京めさると風聞す。
誰かが犬筑波集に付け加えた可能もある。もしそうなら、その誰かは武田信虎だ。
故郷の付近でまごまごしている野心家の息子を、内心、せせら笑っていた。
武田信虎連歌師、柴屋軒宗長の弟子だった。
父親の方は、息子に比べると、ひどく評判が悪い。悪大将、狂気人。まことに情けない月並みの悪事しかはたらいていないからだ。
信廉もまた、信虎の伝記作者たちほどではないにしても、やはり、いくらかかれの父親の邪悪な一面だけを強調しすぎているのではなかろうか。
いかに悪逆無道の父親であろうとも、息子でありながら、その父親を追放するとは、それこそ悪逆無道の最たるもの。
信虎が駿河におもむいたのは、信玄と合意のことであって、かれら二人は、たえず相互に連絡をとり、協力して今川氏をほろぼそうとしたのだ。
甲斐国志のおなかに収録されている今川義元の信玄へ出した手紙を引用した。
甲陽軍鑑三河風土記。かれとかれの息子とが合意の上でうった芝居であるといえないこともない。
ひそかに、信玄と連絡をとりながら、今川家乗っ取りの陰謀をたくらんでいたことは、まんざら、うわさばなしでもないようにいえる。
信虎は、あくまで信玄の味方のようなふりをしながら、息子の駿河侵入の直前に、ひと足さきに都へのぼり、こんどは将軍義昭に近づいて、上杉・北条・織田・徳川等々の大名たちをたくみにあやつり、息子の上洛を意地悪くさまたげた。
そういう父親の心のうごきは、どうやら息子のほうも、十分、感づいていたらしいのである。
にもかかわらず、やはり、かれは、父親の忠告にしたがって、その年、駿河に侵入しないわけにはいかなかったのである。
わたしは、あえてクーデター説をとり、それ以降の信虎の生涯を信玄にたいする復讐のためについやされたとみるのである。この「わたし」が神視点である。「わたし」を隠してしまえば今風の歴史小説になる。
逍遥軒記。信廉の晩年の日記。その日記のはじめのほうに登場する信虎のすがたには、かなりのリアリティがあるように思われる。
信虎は、まったく手のつけようのない昔ながらの意地悪じいさんである。
信玄のおかげで、人生の裏街道をあるきつづけなければならなかった境遇の点においても、かれら二人は、すこぶる似ているのである。
彫刻にもたくみだったかれは、桃のたねから、猿のかたちを彫ったことがある。
風林火山。つまるところ、それは、猿のむれのたたかいかたなのである。
無数の猿のむれがおり、田畑の作物を、あらしまわっていた。猪のむれは、猪垣でなんとか防ぐことが出来た。
猿や猪が、いかに当時の人びとから憎まれていたか。
しだいに自分もまた、猿のむれの指導者のようになりたくなったのではなかろうか。意地の悪い人間の特徴なのである。
土豪や小領主や地侍によって嫌われていた信虎のほうが、客観的にみれば百姓たちの役にたっていたのかもしれないのだ。
卑怯だとみられることをおそれなかったからかもしれない。猿のむれのヒエラルヒーは整然と組み立てられている。
信虎は、ただ、猿のハレムをつくろうとしただけのことなのだ。
まず、まっさきに、はなれ猿になってしまったのが、かれ自身であった。
信虎の期待はみごとにはずれてしまい、歌人としての鼻息は、ますます、荒くなり、例の猿の啼き声はあわれだといったような陳腐な和歌をつくることが流行しだした。
家来のなかから適当な人物をえらんで、御伽衆と名づけ、かれらのはなしをきいて夜をすごしたものである。
猿のむれの優秀さを知らない人びとは、こういった現象をとらえて、逆に猿真似というかもしれない。
猿知恵とは、猿のむれの知恵のことであって、むれからひきはなされた一匹もしくは数匹の猿たちの知恵のことではない。
百姓たちの憎悪の対象だった猿は、同時に畏怖の対象でもあり、厩の守護神として祭られていたのである。
猿のむれにならっていうならば、まず、若者猿のおぼえなければならない仕事は物見なのだ。
信虎の猿中心のものの見かたを、不肖の息子は、あくまで人間中心のそれに置き換えようとするのである。
甲斐の国に城らしい城をつくることを禁じたのは最初の人物は、息子のほうではなく、父親のほうであったからだ。
彼女の巴気どりは、いつの間にか、ハレムのなかにも知れわたり、人びとは多少の皮肉をこめて、彼女を、巴殿というようになった。
意地の悪いかれのことであるから、その猿を使って、私憤をはらそうといったようなつもりがあったのかもしれない。猿の多い甲斐の国においても、これほどの大猿には、まだ誰も出会ったことがなかった。
グルーミングを要求しているのであって、猿としては最大の友情の表現なのである。信虎は、すっかり、得意になって、いずかに猿の腹をかいてやった。
いまやその竹の林に、虎とともに猿が住むこととなったのである。
どうやらかれは、猿に踊りを教えているらしかった。
信虎は猿に芸を教えこむことにも飽きると、猿を相手に兵法の稽古をしだした。
人間の社会にあって、人間よりも猿を支持するものが、三界に身の置きどころのない境遇におちいるのは当然のことではなかろうか。

日本近代短篇小説集3 岩波文庫 二世の縁

視点は、一人称一元視点である。
縁側に膝をついて、切り張りの障子の中へ、先生、入ってもよろしゅうございますか、と私は声をかけた。
「私」は聞き役なわけだ。
私はそっと障子をあけてオーバーのまま部屋へ入った。
部屋に入ったところからストーリーが始まる。逆に言えば、ストーリーを終わらせたければ部屋の外に出ればいいだけだ。それに聞き役であれば、当事者間はない。いかにもポジションとしては、いいのである。
病人の寝床の汚れているのはわびしいものだが、老人の場合には一層である。みじめさへの嫌悪にすり替わっている。
私も先生のと同じ校訂本「春雨物語」を机の上にひらいて、59ページ、二世の縁……はじめからでございます、と言った。
殆ど渋滞することなく述べつづけられる「春雨物語」の第五話まで筆記の筆を進めてきた。
封建時代の道徳からはみ出している作品が多く、なるほど「雨月」のように世に行われず、伝わらなかったのも尤もに思われる。布川先生も夫人にはさき立たれ、一人の令嬢も殆どよりつかない。
私は頻りに秋成の晩年と布川先生の現在の生活との間に共通したものを感じる。
古曽部という豪農があった。夜は更けるまで灯火に書見するのが毎日であった。
窓をあけてみると、晩い月が中空に上っていた。墨をすり流し筆をとって一句二句、思いよって首をかしげ考えている中、鉦の音らしい響きの交って聞こえるのに気づいた。
草も刈らず叢になっている庭の片隅の石の下らしかった。
下男どもを呼び集めて、その石の下を掘るようにいいつけた。
重い蓋を大勢して持上げて中をみると何やら得体の知れぬものがいて、それが手に持った鉦を時々うち鳴らしているのだった。
魂はすでに仏の国に入って躯だけ腐らずこうしているものか。
この乾物を大事に扱うので、湯水を与えるごとに念仏を称えるのを怠らなかった。
何のこともないただの人間であった。
全くこの辺りの百姓の愚鈍に生れついたものの有様そっくりである。
高徳の聖を再生させたと喜んだのに、後には下男同様に召使うようになった。いたずらに形骸ばかり甦ったとは何たることか。
戦後の十年を幼い男の子一人を抱えてかうtかつ生きているわびしい戦争未亡人である。
昔、私に頻りに言いよったあくの強い布川先生が今隣の病室で、弱々しい排泄の努力を懸命につづけているのを見ると、危く涙ぐむほど心を揺さぶられるのであった。
参詣の美女にふと執心して成仏しかね、55年の後も未だ鉦鼓を叩いていたという話である。
下男仲間も近所のものも尊げに扱う風は微塵もなくなって、定助とつけて、5年ほどの間この家に召使われていた。
その家の婿になるがよいと誰も誰も苦笑いしながらすすめ立てて、定助はついにこの女の夫になった。
さては浮世に今一度生まれ変って男女の交わりを果したい執念であったのか。
入定の僧の棺がどうしてそこに埋められていたのかなど調べる道は絶え果てる次第であった。定助の過去についての不審は一向に晴れないのであった。
定助は生まれかわって、妻を貰ったではないか、二世の縁を果たそうとの仏の御思召しかも知れぬ。
私は馴れているので暗くても大方畑中の細い道を歩くことにしている。
定助という不思議な男のことが生きている人のように生々しく心に浮かび上がっていた。
孤独窮迫の生活の中になお創作の衝動に劣らず性の欲望の埋み火のように消えがたく残っているのを、この「二世の縁」を書いたのではあるまいか。
高徳の聖であったかもしれない男が、痴鈍な男に成り変りながら、前の生活で果たせなかった性への執着だけをともかくも一人の女の身体をかりて果たすという結末に作者の性欲の怪しさを暗示しているのではあるまいか。
この男は狂人ではあるまいかと私はふと思ってみたが、そのことは少しも彼に抱きかかえられている異様な快さを減らしはしなかった。
布川先生がこの人? と思った瞬間私の声はまるで違った言葉を叫んだ。定助! 定助だ! これは……
定助がこの男たちの中に生きているのを私はたしかめた。それはさっきの恥ずかしい幻覚以上に、私の血を沸き立たせた。

日本近代短篇小説集3 岩波文庫 萩のもんかきや

視点は、一人称一元視点である。
そのとき私は萩の町をあるいていた。そのとき、というのは、現在から振り返った特定の時期のことだろう。過去形を強めている。
ぶらぶら歩いていた。どのように歩いていたのかを説明している。目的があってすたすた歩いていたわけではないのだ。
汽車に乗って東京へ帰ればそれでいいのだった。つまり、帰るまでのつぶしてもいい時間なのである。
済んだ用事というのは、厄介な用事だったようである。
何年もぐずついた関係でやってきた二人の人間を、分けて対立させるような仕事だった。
五十くらいになると、こういう無駄なことにも動員されるものらしい。
それもすんだ。無責任が楽しい。私は歩いて行った。
大きな家のところへ出た。みるとそこに門札がかかっている。立派な字で名が書いてある。
いちばん大きい保守政党の国会議員で、なかなかに立ちまわっている。
門の真ん前、道路のまん中に、太鼓をのせた櫓が出してある。旅先の気楽な無責任さが、私をなごやかさの方へ引く。
そういう毒のないところへ、旅先の心が行く。
捨てられたようにして置かれた町、そう見て通るほうが気が楽だ。
そのうちいくらか人通りのあるところへ出た。それでも、萩銀座というような馬鹿なところはないらしい。
郵便局のまんまえが菓子屋なのが目にはいった。私はずいと菓子屋に入った。
私は、旅に出ても土産ものを買ってきたということがなかった。
娘のほうは、思い出してあわれをもよおすことも私としてあった。子供の成長に精神的にひびくだろう。
私は、何も持たずに手ぶらで歩くのがいちばん好きだ。その私が菓子屋へはいったのだから、やはり心に隙があったのだろう。
そこに夏蜜柑の砂糖漬があった。箱に貼った紙にも、萩名物という文字が書いてある。
私はぶらぶら歩いて行った。かかえた砂糖漬が、私を甘やかしている。
平安な、いくらかやくざな心持で私はなお先きへ歩いて行った。
なんとなく裏通りといった感じの町になった。
そのとき私は妙なものを見つけた。
店といっても、何の店だかはわからない。女は、何だかを一心にやっているらしい。
羽織か何かへ抱茗荷をかきこんでいるところだとわかって私はほっとした。
見ていられないようなところがそこにあった。
そこに看板のようなものが出ているのが見えた。「もんかきや」
それにしても、あんなことで商売が成り立つのだろうか。
商売としてのそれが、ひどくはかないものに思われてくる。
「もんかきや」の板の下に、「戦死者の家」。
もんかきや、萩のもんかきや、といった調子で私はいくらか急いで歩いて行った。

日本近代短篇小説集3 岩波文庫 結婚

視点は、三人称一元視点である。
主人公と思われる人物、あるいは、その人物と密接に関わる人物との、ある時点での回想ということになる。どの時点か、というのは、最後の結末で判明する。小説世界を誰が構築しているかということに注意しなければならず、その手掛かりは、誰が全知であるかということである。
ミキヤベーカリーでは、豊子が戸田と結婚したときから、戸田は大将のお古を貰ろた、という者がある。
ミキヤベーカリーは、パン屋だろう。戸田は、職人の戸田となっているので、このパン屋で働くパン職人なのだろう。
大将というのは、主人の小沢のことだ。ミキヤはただの店名である。
小沢が豊子と戸田を結婚させた。
小沢がパン組合の理事なったとき、豊子は事務員だった。
半年後、豊子はミキヤベーカリーに転職。さらに1年後、戸田と結婚した。
パン屋の仕事は夜が主となる。
夕方、豊子が帰宅すると、夫は工場へ出勤する。朝、夫が帰ってくる。食事も風呂も工場で済ませてくる。
今度は豊子が店へ出掛ける。
いつまでたっても重なり合うことなしに動いてゆく。それが、二人の結婚なのだ。
彼女の夫は、話しというものをしない人間なのだ。
たまに豊子が散らかしたままでも、きれいに片付いている。夫は何もいわない。怒っているのでもない。
どうしてあたしに遠慮や気兼ねをしなければならない理由があるのだろうか。
豊子が最初に結婚した相手は、材木問屋の息子で、その結婚は半年で駄目になった。
豊子には、事を面倒に考えないで、大切なことほど無造作にするという傾向があった。
今度の結婚にしても、大して抵抗もなしにあっさり承諾してしまった。
豊子が小沢を好きになったのは、彼にいきなり接吻されたからである。
村夫子然、田舎の先生、浅い学問。
その頃、豊子は家を出て間借りして自立の生活を送っていた。不精な彼女には何よりも気楽でよかった。
パン組合の懇親会が終わった後のことだ。小沢が来て、送って上げよう、と言った。
どういうつもりで小沢が接吻なんかしたのか分からないが、豊子はそれで小沢のものになってしまった。
豊子は、男によってこれほどまでに陶酔を得ることが出来ようとは考えていなかったのだ。
彼女は自分の体の中に一人の成熟した女が息づいているのを、怖れと悦びと恥しさの入りまじった気持で見つめていた。小沢は、ちょうおこのような状態の豊子を襲ったのである。
小沢が彼女に手を出したのは、恐らくちょっとしたいたずら心であったに違いない。この中年の好色者にとって思わぬ掘り出し物であったと思われる。
小沢はちょくちょく高台の下にある豊子の間借りしている家へ訪ねて来るようになった。むろん夜である。
部屋を貸しているのはお妾さんであった。女ひとりの豊子のとおろへ夜間、男が訪ねて来ても、そのお妾さんにはあまり気を使わなくてもよかった。
彼女のところへ現れた時の小沢は、まるで豊子を奥さんのように気ままに扱うのだ。
自然に自分がいそいそして来るのをどうすることも出来ない。ああ、なんて馬鹿なあたしだなあと思うけれども、大きな小沢の前に出ると、彼女が急にまめまめしくなって動き出すのが妙であった。
奥さんにいけない、悪いあたしだ。
かのじょがどんなにあの時に夢中になるかという秘密を見破っている人間がいるのではないかと、ふと恐ろしい気持ちになるのだ。
自分と小沢との間は、お妾さんとその主人との関係よりも、もっと不安定な、気まぐれなもののように思えるのだ。あの二人にはしっくりと結ばれた愛情の絆というものが感じられる。
豊子は、奥さんのことを口に出して拗ねてみたりしたことがないのは、奥さんのことを実際そんなに考えていなかったからだ。
小沢の方にしてみれば旅館代が要らなくて済むし、二人で歩いているところを人に見付けられる心配もなくて、好都合であったに違いない。小沢にはそういう抜目のない、狡いところがあった。
或る日のこと、豊子は小沢の家に急に呼ばれて、職人の戸田と結婚するようにいわれたのである。戸田が小沢の眼にかなったわけである。
大将のお古を貰ろた。彼女にその評判を伝えたのは、クリームや餡をこしらえる係りの高木というまだ見習の少年だ。
戸田の眼は彼女の仕草と表情をあまさず見ている。それが、彼女には恐ろしかった。
歯車のような生活は、もうすぐ終わることになった。豊子に赤ちゃんが生まれるからだ。
そうだわ、確かに人間、趣味を持たなくてはいけないわ。豊子は初めて気が附いたような気がする。
ひとりの小さい赤ん坊が生れて来るという想像は、夫の方にも影響を与えた。
次の日から彼は模型のようなものをつくり始めた。それは、大きな模型のヨットだ。そして、初月の末に、ヨットが出来上がった。
プールサイドにしゃがんでいる二人の眼の前で、ヨットは、あるかなきかの風の動きを敏感に捉えて、走り出した。
わかりやすい。ヨットが走り出して、しばらくしてから、豊子が昔を振り返ったのだ。戸田も一緒かもしれない。

日本近代短篇小説集3 岩波文庫 黒い裾

視点は、三人称一元視点である。
主人公と思われる人物、あるいは、その人物と密接に関わる人物との、ある時点での回想ということになる。どの時点か、というのは、最後の結末で判明する。小説世界を誰が構築しているかということに注意しなければならず、その手掛かりは、誰が全知であるかということである。
16という若さ、で始まる。16歳は若いから若いと言っているわけでは、もちろんない。そうなら書く必要はない。16歳という年齢では若過ぎる、と思われる、境遇にいるのだ、ということである。
緊張でぎくしゃくしていた、となるのは、若過ぎるから、もっと言うなら、年齢不相応から来るのであろう。
千代ははじめて人の集まる場処へ母親名代で出て行く。母親名代、ということは母親の代わりであるから、母親はいないのかもしれない。
人の集まる場処、というのは、伯父の葬式であるらしい。
大人並みの手伝いをしてのけるつもりだった。年齢相応なのが、大人、ということがわかる。
気ばかり張って、お寺へと歩いて行った。向かった先は寺なのである。
齢不相応に地味な着物、新しい足袋、草履の鼻緒に黒いきれ。喪服のない肩身の狭さ。貧しいというのもあるが、確かに年齢的に喪服はないだろうな。
いかにも片親育ちのしっかりした娘。やはりちぐはぐななりはもたついていた。
お寺の門へ行くと、よその葬式がまだ済んでいなかった。
七月末の旱続きの太陽、寺全体は岑閑と照り付けられていた。式は2時。今は11時過ぎ。たっぷり時間を計算したのだがよその葬儀があろうとは予想していなかった。
天幕を見るとうちのだった。千代はがっとひとりで赧くなった。伯父の葬儀は格の上がったものだと知った。
天幕の三人が視線をこちらにあてていた。三人が立っている受附。
今日は皆さまご苦労様に存じます。私、母に代ってご用いたしとうございます。
男たちは返辞をしてくれず、双方困ったことになった。
受附を廻ろうとし、「あ、いけねえ。」言ってしまって、たちまち顔の道具が一斉に崩れててれる。実は僕もゆうべ悔み受けの挨拶をおしえてもらったんだけど。
千代は、あの馴々しさは誰だろうと思った。
やがて、伯父の婿、長女の嫁いだ酒井さんが乗りつけてきた。まずこの一族きっての婿の第一位、誰よりもいちばん目を置かれている人だった。
親類が早めに集まって来はじめ、お茶版はせわしくなった。間合いを測ることを知った。間合いよく給仕ができさえすれば、人は茶碗へすぐ口をつける。千代は、この忙しい酒井さんがもしかしたらいちばんお茶が欲しい人かもしれないと考え付いた。
手伝うというのは役に立つ場処を見つけ出すことだと合点した。
喪主と近親がぞろぞろ控室へ入った。昂奮の気配が渦に回り出した。千代はまったく巻かれて、ばかの一つ覚えにただ湯を絶やすまい、いつか自分が軸になってお茶番の女たちを動かしていることは知らなかった。
同年輩の従兄弟はとこと一緒に並んだ。働けたという自覚からゆったりした心であり、あたりのものが素直に眼に映った。
7、8時間ぶっ通しに傷めた神経と体に夕風が吹き抜けた。
百ヶ日が明けて秋は深く、酒井桂子から手紙が来た。あの日特別働いたものだけで集まろうというのだった。
劫は思った通り酒井姓。
紋服の用意がございません。まったく千代さん立派だった。千代は少し悔しかった。劫はよさない。
たった一人混じったよそ者である千代をあたかも一座の娘のように暖かく包んだ雰囲気だった。
それが齢とって振り返って見るようになると、若い時のよい記念だったという気がして来る。千代さんの16歳の記念とでもいいますかな。
けれども葬儀は終わったのでなくて、実は千代と葬儀とのつながりがこの時から始まったという方があたっていた。
祝儀には行かないでいられても不祝儀には人情が搦む。伯父のときで母親名代の試験済みになっていた千代は、早速通夜にやられた。
よほど下手に出てあちらを立てないとまずいことになる。劫は耳打ちした。
いい加減で帰った方がいいかもしれない。改まった挨拶なぞするとかえってひっかかるといけないから。大人めかしいことを言う。
あれから半年にしかならないのに、落ち着いてきた。
さほど親しみのない人の葬儀を相次いで二つ手伝ったことは女のタッチする範囲を大づかみに認識するのに役立った。急速に葬式の雑知識が身に付いていった。
卒業祝いはいらない代わりに喪服をこしらえてくださらない。
そんなもの、あてなしにこしらえるもんじゃないのよ。
黒く光る着物に手を通す。
羽二重はさすがに着心地がひきしまっていた。たとえ喪服でも新しいものの嬉しさ。
今まで手伝ったどの葬儀より心にじわじわ沁み込む悲しさがあった。亡くなった人その人の薄倖が傷ましいのか。
千代の方は勤めを持った。結婚はどんどん後れ、あわれに清々しい処女が残った。女も25を越すと、花やかさは薄れる。そんなときに黒はいちばんよく似合う着物なのだ。
いならぶ女たちからひときわずば抜けて光る黒羽二重の人だった。
しばらく会わないけど、あのかたに会わないのは、お葬式がないということと同じなんだわ。
久しぶりに見る劫、変わらないのは例のおしゃべりと愛嬌と、そつのなさだった。
成功途上にある人の得意さはよほどきびしく押さえているらしかった。
千代の結婚は、結果において失敗だった。
生活力の薄い男は、所詮優秀な女房とうまく行けなくなった。
親類へも知己へも音信不通の状態で10年が過ぎた。その逼迫の形見に喪服だけが残っていた。
喪服は、夫の死で何年ぶりかで千代の肩にかかった。
一年置いて、喪服はまた役立った。夫の死ぬ時、脈をとってくれた医師の死だった。
静寂にして盛んな葬送だった。焼香を済ませて電車通りへ出ると、劫がいた。
あなたと楽しい席で会ったのはたった一度だけ、酒井のうちでの慰労会。あのころは、葬式もなんとなくおもしろい他人事だなんて思っていた。
そんな最中に、訪う声が劫のものだった。酒井さんがやられたから、今すぐいっしょに行ってくれという。
この土地は土葬の習慣なので、焼場は遠い松山のなかに窯一つというのしかない。
窯から引き出して、トロッコ様のものに載せると、手荒く引き出していく。鬼婆の引く火の車の地獄絵さながらだった。
焼け残った家で千代は喪主になっていた。母を送ったのだ。
酒井さんの三年が過ぎて、桂子が上京した。劫さん、行方不明なの。
劫の罪名はいくつも挙げられていた。あちこちに隠れ回った挙句、郷里のすぐ近くにある海岸の崖鼻まで来て、そこから消えているのだった。
最後の長上である叔父が亡くなって、きょうその葬儀だった。
裾は透切れして、裾芯の真綿が鼠色に汚れて、たるんだ吊橋になっていた。
十分に大きく鋏の口を拡げておいて黒い裾へ噛ませた。抵抗のある音がじょきりとした。
大鋏をふるって黒い喪の着物の裾を裁つ。生きている人へ葬儀のまぼろしを見せてしまった。
血縁の目上は今日の叔父で最後。もう私には送る人がいなくなった。喪服一代は女一代に頃あいなのかな。
劫さん、葬式の時だけの友達。
葬式の時だけ男と女が出会う。
葬式の、人が死んだということの、落ち着きがここの屋の根に訪れ始めているなと感じた。

日本近代短篇小説集3 岩波文庫 驟雨

視点は、三人称一元視点である。
主人公と思われる人物、あるいは、その人物と密接に関わる人物との、ある時点での回想ということになる。小説世界を誰が構築しているかということに注意しなければならず、その手掛かりは、誰が全知であるかということである。
ある劇場の地下喫茶室に山村英夫が行こうとしているのだ。ところが、舗装路に行き交う人々に邪魔されて、のろのろとしか進むことが出来ないわけである。
日曜日の繁華街、ということだ。平日ではないとすると、勤め人であろうか。
酷い混雑だが、苛立ったりはせず、押されるがままである。エスカレーターに乗っている気分、ともある。余裕があり楽しみでもあるのだろうか。
ズック、粗い麻織物。厚いズックの布地、赤と青の縞模様の日除け、時計屋。
約束の時刻は午後一時。時計屋で時間を確かめようとしている。腕時計を持っていないのだろうか。
夏の終わりの強い日射しに慣れた眼。店の中は薄暗かった。その時間に起こることが不明確なのだろう。
しかも、店内の時計は思い思いの時刻を示していた。さらに人が押し寄せて来るので立ち止まることは出来なかった。
胸がときめいていることに気付いた。
ときめくということは予測していなかった。まるで恋人に会いに行くみたいだ。
これから会うはずの女。魅惑的な体をを持った娼婦。
その女を気に入っていたが、愛するとは別のことだ。
愛するということは、自分の分身をもう一つ持つこと。自分自身の顧慮が倍になること。煩わしさが倍になること。
故意に避けていた。
恋人に会いに行く感情は、彼を不安にさせた。
待ち合わせの経緯を思い返した。
一か月前、娼婦の町にいた。好もしい女がいたので、女の部屋へ上がった。
映画雑誌のグラビアから切り取られた女優の写真。北欧系の冷たい顔。大きな眼に青白い光を感じさせる。
トリミングすることで、その娼婦は女優の眼に青白い光を灯した。その光は、この町とは異質な閃きを感じさせた。
湯呑みを起こして茶を注ごうとした。指の佇まいに、女の過去の一齣が映し出された。
茶の湯を習ったことがあるね。どうして、そんなことをお訊ねになるの。
咎めるような口調で言い、眼が力なく伏せられた。
興味を惹かれた。だが、それはこの町と女とのアンバランスな点だけ。よその街にこの女を置いたら色褪せるはずだ。
もっと娼婦らしい女の方が適当だった。遊客としてはそう感じた。
果たして娼婦に相応しくない慎み深い趣だった。
女の体を彼は気に入った。飽きるまで幾度か通うことになるだろうと思った。
勤務先の汽船会社の仕事で、翌日から数週間、東京を離れる。
いつ、お帰りになるか、旅行先から手紙をくださいませんか。
教え諭すような口調、幼稚園の先生の類を連想させた。
その記憶によって、旅情と相まって手紙を書くことになった。その土地の旅館で待ち合わせの日時を便箋に記した。
白昼の街中にその女を置いて、その女の余情を消してしまおうとも思っていた。
自分が書き送った一方的な逢引の約束を娼婦が守るかどうか。そういう興味にしておこうと考えていた。
女はすでに座っていた。
感情の高ぶりが続いていて言葉を出しかねていた。
わたし、義理堅いたちでしょう。女が言った。
毎週、金曜日のお昼に会う客がいて、魚料理を食べに連れて行ってくれる。言葉の陰影が伝わらないように付け加えた。
まるで、求愛して拒絶されたような按配だ。時計屋で潜り込んできた感情の帰結であることに驚いた。
現在の彼は、遊戯の段階からはみ出しそうな女性関係には巻き込まれまい、と堅く思い込んでいた。そのために娼婦の町を歩いた。
平衡を保とうとしている彼の精神の衛生に適っている。
あなたが好き、という女の言葉、それに続く行為が保証されているので、そのまま受け取っておけばよいわけだ。
あなたとお会いしていると、恥ずかしいという気持ちを思い出す。
なるほど、商売柄、いろんな言葉を知っているね。遊客に戻れた。
猥談が弾んだ。
僕の友人たちを紹介しようか。女は口を噤んで、睫毛を伏せてしまった。
眼の前の女を彼一人で独占できないということを自分に納得させようとしていた。
操を守るということ。娼婦の場合、どういうことか解釈できない。オルガスムスに達しないようにする。
操を守ってもらうような男にはなりたくない。
ずいぶん、取り越し苦労をしているのね。
彼は、もう一度、女を娼婦の位置においてみなくてはならない。女をホテルに誘って、その体を金で買ってみよう。
女の眼が濡れた光に覆われているのに気付いた。恋をしている女の眼の光に似ていた。
女は彼の視線に気付き、顔を上げると笑い声を立てた。その笑い声は不意に消えて、寂しい表情が女の顔を覆った。
誘いの言葉が、彼の唇でとどまった。
今度お会いするまで、わたし、操を守っておくわね。
女が固有名詞となって這い入りこんできた。封筒の宛名の「道子」という女の名。
晩夏から秋が深くなるまでの約一か月半の間、山村英夫は、道子の部屋で朝を迎えた。
月給の前借、水心子正秀の銘刀を金に替える。
道子の傍らの見知らぬ男たちを排除する以外に方法はなかった。
背の高い女が彼の耳元で囁いた。「首筋のところを摘まんでくれない。早くお客があるおまじないさ」
道子がこの店に来て二年、最古参になってしまった。
裏木戸を開けようとしたら、彼の眼前に老人の顔があった。来年の運勢暦だから買ってくれ、と言った。
思わずポケットの金を探って買ってしまった。道子ははやく自分の運勢を調べてくれと言った。
その冊子をめくって彼女の星を探した。そのときはじめて、道子が四つ下の年齢であることを知った。
暦を信じていないにもかかわらず、彼は良い星を彼女のために願っているのに気付いた。
街は夜とはまったく変貌して、夜にはなかった触手が伸びてきて、彼の心に搦み付こうとする。
紅灯の巷、花柳界に棲む女。
大盛運とあって安堵の感を覚えた。道子はそれを見て、控え目な笑顔を示した。
彼はこのとき初めて、彼女の笑い声に哀切の翳を見た。
どうせ廃めるならキッパリ縁を切りたい。貯金がもっとできたら、花屋さんをやりたい。
自分は道子の花屋へ何の花を買いに行くだろうか。
廃めたひとたちのほとんど全部が、また戻ってきていますものね。
隣席の古田五郎が白い角封筒を差し伸べてきた。
この男とは麻雀と娼婦の会話だけだった。
上役の娘との縁談が起こり、にわかに素行を慎みはじめた。
結婚披露宴に出席してもらいたい。
華燭の典が結婚式。華燭の宴は宴会。民謡の歌手の作品にある。
結婚式の前夜、山村英夫は娼家の一室にいた。恋慕の情に近くなっているかのような風情。
気を許してはいけない。カレンダーに印をつけようとしたら、他のお客さんがヘンに思うから。
狭斜の巷。遊郭のこと。ほとんど変化していない。
早く、あなたに可愛らしいお嫁さんを見付けてあげなくてはね。その言葉の意味は何なのだろう。
ぼくはまだ独身だよ。道子は不意を打たれた顔になった。輝き始めた女の瞳を見て、彼の心は不安定なものに変わっていった。
彼女を愛してしまったいまは、道子が娼婦であることが彼の心を苦しめた。
端座、正座。ずっと以前から道子とこのような朝を繰り返している錯覚。
日光がフットライトのように直射した。
皮膚に澱んだ疲れがあさのひかりにあばき出され、娼婦の顔が浮かび上がるのを待っていた。
道路の向う側に植えられている一本の贋アカシアから、夥しい葉が一斉に離れ落ちている。激しい落葉。まるで緑色の驟雨であった。
一瞬のうちに裸木になってしまおうとしている。
東京駅のプラットホームに取り残された山村英夫は、道子という女に傾斜している自分の心を見詰めて、しばらく佇んでいた。
自分の心に消し難い嫉妬心が動いているのを、彼は鮮明に感じてしまった。
嫉妬を飼い馴らして友達にすれば、それは色ごとにとって、この上ない刺戟物になる。
ハッハッハッという笑い声は、古田五郎が商取引のとき連発する笑い声の抑揚であった。
彼の心象の宴会の風景は、不快の色を帯び始めた。
一番最初の問いである。では、主人公である山村英夫は、どの時点で、この小説世界を構築したのだろう。
最後の、娼婦である道子に嫉妬した、ということであるから、山村英夫が普通に結婚して家庭を持った時点であろうと思われる。
いい思い出なので、道子をいい女に描いているわけだ。