読書感想文

タイトル通り読書の感想です

文學界 2021年5月号 私の身体を生きる 第三回

この文章はエッセーである。少なくともそう冠されている。
とすると、(動かしがたい)現実世界というものが存在することが前提ということである。いわば座標のようなものと考えてもいい。
さらに言えば、その座標の中に著者が位置付けられているわけである。
冒頭、枕はドラゴンボール(アニメ)のことである。ドラゴンボールのアニメは1986年から放映しているらしい。また、子ども向けアニメなので、著者は、その当時子どもだったはずである。仮に、大人でも見る人はいるかもしれないが、少なくとも、著者はそう宣言しているのである。
ところで、読者である自分のドラゴンボールに対する認識はどうだろう。実は、大人気のコミック、アニメ、ということしか知らないのである。ほとんど見たこともない。見たとしても、偶然テレビのチャンネルが合ってしまい、チラ見した程度である。作品としての興味も待ったことはない。放映している西暦年を書いたときもwikiで調べたのである。
ということは、著者と読者としての自分との共有事項は、大人気の子供向けアニメ、ということだけである。1986年という時代性はどうでもいいのである。著者は果たして、そういうことを踏まえているのかは不明だが、実は踏まえている可能性が高い。なぜなら、掲載されている雑誌自体が、そういった年代層をターゲットにしているわけではないからだ。極端に言えば、中学生ぐらいからかなりの高齢者までを読者層と考えており、当然、情報としてその読者層に共有可能でなければならない。だから、この場合も大人気の子供向けアニメ、でいいのである。
次にピッコロ大魔王が出てくる。自分は、名前は何となく知っているが、まったくおぼろげにしか記憶はない。さらにもうwikiで調べるのも億劫になってきている。それを察知してか、著者はピッコロ大魔王の容姿等を簡潔に説明してくれる。だが、ドラゴンボールにまるで興味がないので、ちっとも頭に入らない。でも、それでいいのだ。著者が言いたいのは、子どものころ、そういう説明ができるくらいにテレビに噛り付いて見ていたのだ、ということを言いたいのだ。
ピッコロ大魔王の話はだらだらと続き、ついに壮絶な最期まで来る。最後のシーンである。胴を貫かれるのである。やっとドラゴンボールの話も終わるわけである。その最後、ピッコロ大魔王は口から卵を産み、その卵はスパーンとどっかに飛んでいくのだ。ほー、で、それがなにか? と大半の読者は思うだろう。でも、そのことに対する考察を著者はしつこく続ける。
胴に穴が開いたとすれば、たとえば、お腹から喉を通って卵が出てきたわけではない。また異性がいるわけでもないので、いわゆる無性生殖である。さらに、後で調べて、実は最後のときでなくても、口から卵を産んでいたらしい、ということも付け加える。読者はピッコロ大魔王の生態について、まったく興味がないが、ここまで、懸命に著者が説明するとなれば、では、なぜ、著者がそんなことにこだわるのか、ということに思考が向いてくることになる。
次からが本題である。著者自身の結婚、妊娠、出産の体験談である。ただ、ここで重要なのは、一般的なこと、ではなく、あくまでも「体験談」なのである。
一般的なことというと、結婚→妊娠→出産、である。誰もなにも言わなければ、まったくそうであろうと思える。そこへ著者は、「体験談」をぶつけてくる。
実はそうではなく、結婚→避妊→避妊を止める→妊娠→出産、なのだと。世間一般では、「避妊」というのがすっぽりと抜け落ちているのである。モラルから避けているのか、たんに知識がないから(避妊はコンドームしか知らない)なのか、あるいは、その両方なのか。迂闊にも、自分も、まったく、そういう認識はなかった。考えてみれば、結婚して、そのままなら、五、六人は子供ができてしまうことだろう。そうならないとすれば、それは、なんらかの避妊の結果なのである。しかも、現在の経済状況を考えれば、夫婦共働きはよくあることで、つまり、出産時期、出産回数をコントロールしなければならない。となれば、なんとなくどころか、「避妊」はすごく重要な手段なのだ。
さらに、著者はその過程をもう少し細かく説明する。
結婚→いまは妊娠はまずいと判断する→避妊、というのが入る。とするとその次に来るのは、妊娠しても大丈夫、あるいは、妊娠しなければならない、という判断ないし決断→妊娠→出産、ということである。たしかに、なるほど、である。理路整然と、その通りなのである。でも、この段階で、まだ、それがどうしたの? と、読者は、他人事なのである。
著者は続ける。避妊をする判断、避妊を止める判断、その「判断」って、結局、だれがやるのか? そう、それはこの場合、著者自身がやるのである。一般的には、妻である女性がやるのである。
しかも、この「妊娠判断」、男である自分が他人事として考えたとしても、女性にはかなり重い判断ではあるに違いない、とはっきり思える。ああ、いいよ、妊娠しても、なんていうことでは、済まされるわけはないのである。社会的にも、肉体的に、精神的にも、間違いなく重い判断だ。
重い判断はわかったけど、申し訳ないが、こればかりは、などと男の読者である自分は、早くも逃げの体勢になってしまっている。そこで、冒頭のピッコロ大魔王である。ピッコロ大魔王の出産は、口から卵をぽろっと出して終わりである。なるほど、これなら、重い判断はいらないわけだ。
で、このあとは、どうなっていくのだろうか。
著者は、妊娠したのだ。理由は、判断をするのに疲れたから。いわゆる、成り行きに任せた、ということかな。たしかにそうだ。妊娠が大変だから、出産を諦めた、大変でもやっぱり、出産した、これらの結果を判断するのは不可能だ。
ところが、著者は、かなり激しいつわりに見舞われる。まるで、いちおう妊娠という判断を下した著者をあざ笑うかのように、体の重いつわりは、著者を苦しめる。挙句に入院してしまう。
入院して、著者は悟るのだ。入院したのは、著者自身ではなく、まず第一に、体内の子どもであり、第二に、その子供を育てるための装置である体なのだ。そこには、判断を下すべき著者自身という主体は存在しない。
さらに、出産してしまうと、今度は、巨大で凶暴な、子どもがかわいいという感覚が生まれてくる。もちろん、それは、ホルモンの作用に他ならない。著者の主体がコントロールできるものではない。また、家族が助けてくれる、それもまた、主体の範囲外のことだ。
著者は次の言葉でしめている。
自分の体が、自分という主体のロボットだったころが懐かしい、と。それを実現している者こそが、ピッコロ大魔王なのだ。でも、ピッコロ大魔王は、所詮、子ども向けのアニメの登場人物なのである。