読書感想文

タイトル通り読書の感想です

すばる 2021年5月号 流れる島と海の怪物

視点は、三人称一元視点である。主人公の名前は田所慎一。作家であるらしい。
朱音の妹の朱里と別れる時よりも大きなこと、五歳の時に起こったらしい(センターフライでないこと)。
その大きなことは、父の照一、母のるり子の人生も変えてしまったぐらいだった。
すごく回りくどくて、わかりにくい書き方だが、一度にいろいろなことが起こったからだろうか。
まあ、センターフライ、となっているなら、野球ということだ。野球ならチームのスポーツでジョギングとはわけが違う。ギャラリーもいることだろう。少なくともそういうスポーツである。
さらに、卓球のように狭い空間のスポーツでもない。それなりに広いところ、しかも、センターだから外野だ。それくらい離れていれば、声も聞こえなくてよかった、という出来事である。
それは、1977年初秋に起きたということだ。日曜日の会社関係の草野球。
父の照一の守備はファースト。そこで亡くなったらしい。ただ、そのときの状況は、映像というか写真だろうか、そうしたものは、母のるり子が焼いてしまったので、るり子の話を聞くしかないのだ。なぜ、焼いたのかというと、最悪の思い出だからだ。
トネリコアオダモ、バットの素材になる木。
それでも、野球やりたい、と慎一が言うと、るり子にベランダに追い出される。祖父の寿六も生前は付き合ってくれた(一緒にベランダ行き)。
父、照一が亡くなったので、祖父、寿六が来て、一緒に住んでくれていた。寿六は、昔、中国大陸に戦争に行っていた、などと話していた。
たまたま腕に銃撃を受けて、早くに山口、下関に戻ってきた。運がよかった。福子、るり子が生まれる。
のんびりしていて、負傷した腕は伸び切らず、妻が世話してくれた。
それなりに空襲を受けて大変だったが、なぜか、二発目の原爆は、小倉ではなく長崎に落ちた。原爆の歴史的事実を忘れることは出来ない。
偶然助かったが、恐怖だけは残る。偶然だからこそ、恐怖なのだ。
偶然か必然かという煩悶。偶然にヒトラーが登場、ヒトラーを倒すために原爆の開発、その原爆は小倉に落とされるはずだったが、偶然に長崎に投下された。
偶然の恐怖、あれは偶然といえば、責任はなくなってしまう。慎一が小説家になったのも偶然?
なのに、朱里は主体性と必然性の権化。
小説自体も作家である慎一の必然、さらに意志、故に、責任を持たなければならないはず。
まるで、意志あるかのように戦中、戦後を生き抜いた寿六は下関に戻ってくる。
そんなことを知ったのは、照一が亡くなったあと。実感したのは葬儀中、寿六、福子の姿を見たとき。
るり子は、息子である慎一が手を握ってくれたことに対して、優しい子だと思う。息子の存在、夫の死の真相を知らなかったから。冒頭に戻る。
慎一は何気に母の手を握っただけ。そのとき、魚が落ちてきた。
母は離れていったので、伯母の福子に、魚が落ちた、と言った。
福子は、魚に気付いたかもしれない。