読書感想文

タイトル通り読書の感想です

新潮 2021年5月号 ツボちゃんの話

エッセーである。とすると、その前提として、動かしがたい現実が存在している。とはいえ、科学の論文でもないので、その現実は論証されるほどの堅固なものでなくてもいいのである。
内容は、坪内祐三さんという方についてである。ただ、読者である自分は、坪内祐三さんについて、まったく興味がない。ということで、坪内祐三さんについて云々という第一章から第四章については触れない。
第五章 人間オタク となっているところから。
つまり、坪内祐三さんは、オタク世代、その中でもオタク第一世代ということらしい。
ちなみに、他の例として、大塚英志さん、岡田斗司夫さん、宮台真司さん、みうらじゅんさん、山田五郎さん、中森明夫さんの名前を挙げている。
この中で、大塚英志さんというのはまったく知らない。wikiネタだがだいぶ有名だったみたい。ひょっとしてと思って部屋の中を探すと、オタクの精神史みたいなタイトルで、最後がエヴァンゲリオンで終わっている新書があったのだ。見てみると、果たして、大塚英志さんの書いたものだった。といっても興味がないので再びどっかにいってしまったが。
で、本題に戻るけど、坪内祐三さんというかたは、第一世代オタクとの経験や情報は共有するが、自分はオタクではないと言っていた、ということだ。つまり、行動は明らかにオタクなのだが、それを指摘されても、オタクではないと言い張っていたらしい。
いまだと、まるで意味不明なやり取りだが、昔の状況を考えれば、確かにそれはあるかもしれない。
そう、昔は、オタクというのは、否定的なイメージだったのだ。否定的イメージの前史はネクラだったんだろうね。
著者によると、「人間オタク」であることは認めたらしい。いつ認めたのか年号が記されていないので、わからないが、おそらく、最近のことだろうと思う。
では、「人間オタク」とはどんなものだろうか、ということ。
たとえば、ある特定の力士である。その力士から親方、行司、呼出、床山等と広げていき、エピソードを探り出すのだ。また、ある政治家について。その政治家が東大に受かったときの合格体験の記事に辿り着く。
そういった事例のような話題が続き、最後に、贋作男はつらいよというドラマ。そこで、主役を演じた桂雀々さんについて。この人が昔、花より団子という名前でテレビに出たことがある、ということだ。で、その文章が、坪内祐三さんの絶筆になったのだ。ちなみに、この花より団子ネタはまたしてもwikiに載っている。
とはいえ、結局、人間オタクって、なんだ、というと、実はあんまりよくわからない。
おそらく、坪内祐三さんという人は、雑誌三文記事オタクだったのではないかと思う。
まあ、それはそれとして、では、なんで、オタクではないと言っていたのだろう。その前に、どの点がオタクの否定的、あるいは、非難されるべき性質なのか、ということである。それは、社会性がない人、ということだと思う。
たとえば、オタクに似ているが、そうでない人種に、コレクター、というのがある。オタクとコレクター、どこがちがうのであろうか。簡単に言えば、社会性を保ちながら様々なものを蒐集するのがコレクターである。他にも趣味人、好事家なんていうのも、同じだろう。オタクは、社会性を犠牲にしてしまうのである。こうなると、「依存症」に近くなる。「人間オタク」なら、さしずめ、「個人情報特定マニア」、の方が合っている。
以上のことから、ここでいう「人間オタク」坪内祐三さんというのは、つまり、雑誌三文記事を渉猟しているときは、社会性が保てないぐらいに熱中してしまうが、それ以外のことは、ちゃんと社会性がありますよ、ということを言いたいのである。著者もおそらく、その考えをそのまま踏襲しているのであろう。
(ちなみに、オタク第一世代と書かれているので、他はどうなのだろうか。ネットからオタク世代の区別を拾っておく。オタク第一世代はアニメ、新人類 オタク第二世代はゲーム、団塊ジュニア オタク第三世代はインターネット、オタク第四世代、オタク第五世代、わからん、ということだ)
とすると、かつて、オクタ(第一世代に限らないが)というのは、社会性と対立しているものだったわけだ。だが、その構図がいまは存在しない。
いまあるのは成果主義である。オタクだろうが、マニアだろうが、依存症だろうが、破綻者だろうが、成功すればいいのだ。その逆に、社会性があっても、モラリストであっても、人間としてできていても、失敗すれば、ただのクズでしかないのだ。

オタクが多様化を許容する社会に認められたのでもなく、理解ある優しい人々に受け入れられたのでもない。その背後にあるのは、酷薄な成果主義の登場に他ならない。
そう考えると、坪内祐三さんというのは、オタクを否定したものの、実は最後の真っ当な人だったのかもね。