読書感想文

タイトル通り読書の感想です

すばる 2021年5月号 ハイドロサルファイト・ゴング

タイトルからして意味がわからない。
コンクというのは濃縮液のことらしい。たとえば、カルピスコンクというのは、水で薄める前のカルピスの原液のことである。
で、ハイドロサルファイトというのは、漂白剤のことである。連載の第十一回目なので、ひょっとしたら、第一回あたりにタイトルの意味が書いてあったのかもしれない。
入院前は、半地下の本がたくさんある部屋の固いベッドで寝ていた。だが、退院した今は、柔らかいベッド、かつ、本はカビの原因になるので、ダメだと言われた。妻と娘の部屋を使うことになる。
ただし、家庭内隔離状態。
分厚いマットレスが心地いい。GVHD、ドナーのリンパ球が患者の臓器を攻撃する症状。
吝嗇を押し付けたくない、それは、自分が押し付けられるのが嫌だから。人生の在り方まで感じさせる。
次に載っていた。鼠漂白、鼠駆除剤なのか。もっとも、それ自体が、何の比喩なのかわからないけど。
柔らかいベッドでぐっすり眠る。その柔らかさで昔の女を思い出す。十八歳の頃の京都の思い出。結婚がちらつき東京に逃げ帰るも、いまとなっては、惜しかった。
体調は良くなかったが、自宅なので精神的にはいい状態。
食べ物の制限は多く、温泉卵(は食べられる)をいろいろに作ってみる。それでもネットでジャンクな食べ物を閲覧してしまう。
世間は新型コロナで外出を控えるように、ということだが、こっちは、もっと前から、外出を控えている状態。
ただ、小説の取材をしている解離性同一性障害の方から自分を見限ったのでは、という非難のメールが来て苦慮してしまう。行ってあげたくても病気で外出もままならない。理解してもらうのが難しい。
代わりに解離性同一性障害の方のいろんな人格が助けに来てくれたらしい。(パルスオキシメーター、右手人差し指に装着するが左手薬指に嵌っていたのはそのためか)。入院中に助けたのに会いに来てくれない。
誕生日の三日後に肺の異常が見つかる。再び入院生活へ。
肺炎になっている。しかも、ウイルス由来ではないかもしれない。GVHD由来だったらまずいことになる。内視鏡検査。
大掛かりな検査の結果、やはりGVHD由来、いままでの抗生物質による治療は無駄だった。ステロイド剤の大量投与へ。
ステロイド剤の副作用で躁状態。原稿の仕事がはかどる。
副作用でムーンフェイス。再入院は半年に及ぶ。
肺炎による恐怖は尋常ではないことがわかった。
六人部屋へ。一人のベッドだけ頭が通路側になっていた。
理由はすぐに判った。ひどい睡眠時無呼吸症候群、鼾のためだった。
自分も睡眠時無呼吸症候群CPAPを装着してよくなった。
そこで、当の本人に睡眠時無呼吸症候群を指摘し、自分の経験も踏まえ、適切な治療を受けるように提案してみた。
まったく、会話が成り立たない。
当の本人は、鼾を咎められ続け、被害妄想に陥っていた。しばらくして、別の病室に移っていった。睡眠時無呼吸症候群を治療しているわけではないので、なんの解決にもなっていない。
Zさんのこと。12年間入院。定期的にきれいな女性が訪れてくる。ボランティアの女性、ただの善意で来てくれるだけ。自分のうちで死にたいから退院。長年の闘病による諦念。

すばる 2021年5月号 自分で名付ける

これ、最終回なのか。ということは、前に文章があるわけだ。だけど、いまとなっては仕方がない。
冒頭、そういえば、で始まっている。前から続いている文章があって、それを断ち切っているわけだ。それが何だかわからない。
次に続くのが、父親に子守唄を歌ってもらった記憶がない、という文章。
想像するに、前の文章は「子守唄」か「父親」、そのうち、「子守唄」ではないだろうか。わからないので、取りあえずそういうことにしておこう。
Oというのは子どものことだろうか。子守唄を歌おうと思って気付いたのだ。
母親に聞いたら、父親がそんなことするわけない、という返事。
父親は、地質学の研究者で、調査で数か月帰らないこともある。わたしが幼かったころ、久しぶりに父親が帰ってくると、父親のことをすっかり忘れているので、恐怖で泣き叫んだ。
母親の世代は、女性が子育てをするのが当たり前で、男性が乳母車を押しているのを見て驚いた。Xも子守唄を歌うことこそしないが、絵本読みぐらいはやる。
自分が子守唄を歌うことにする。北原白秋のとねんねんころりよの子守唄が記憶に残っている。だが、しっくりこないし戸惑うし恥ずかしい。
だからといっていい曲だと泣いてしまう。たとえば、大きな古時計
たいていの歌は囁き声で歌うと子守唄になる。ただ、絵本と違って、手持ちが尽きてしまう。歌は短いのだ。
そこで、歌詞を変えながら歌う方法を編み出す。無限のバリエーションである。
夫婦別性は後退してしまった。タイトルからしてテーマは夫婦別姓だったのね。
2020年12月。第5次男女共同参画基本計画から夫婦別性という語が消された。
結婚すると名前を奪われる。法人カードは戸籍名。国民健康保険も戸籍名。
大検を受けるための専門学校はためになった。
英語の授業。アメリカから日本に来た野球の審判。teachという言葉を使った。上から目線なのだ。
歴史の先生。事実婚をしていた。
法的に家族ではないけど、家族という人々。
出産したとき。夫婦として接してくれたが、病院としては、夫に説明は出来ないし、ICUに入れさせない。
児童手当の申請。子どもを養っている人に支給。
児童扶養手当の対象ではないと言われる。男性と同居しているから。母子家庭みたいな家庭で子どもを養っている人に支給される。
配偶者控除。配偶者の年収が100万円以下なら住民税がゼロ。103万円以下なら所得税がゼロ。
カルディって喫茶店か。ランニング用ベビーカー。
母性という感情。
資本主義社会。男性、父性、仕事。女性、家事と育児、母性。男性も女性も社会も疲弊してしまう。
「保護者」というのがいい。

すばる 2021年5月号 僕たちはこれからどう生きるか 冬編

一人の人間の生命維持に必要な1秒当たりのエネルギー、90ワット。電球と同じくらい。
あらゆる動物の代謝率は、その体のサイズで決まる。動物の代謝率、体重の3/4乗に比例する。クライバーの法則。
体重が2倍になると、代謝率は1.68倍。
サイズが大きくなればなるほど、必要なエネルギー量は相対的に少なくなる。ゾウはネズミの10万倍の体重だが、エネルギー消費は5600倍。
現代の日本人、一人当たり5キロワットのエネルギー消費。世界平均では、3キロワット(3000ワット)。
必要なエネルギーが90ワット、消費しているのが3000ワット、33.333倍。一人で30人の奴隷を使っている。
堆肥の切り替えし。落ち葉に発酵液。
落ち葉を集めて木枠に押し込み攪拌する。発酵熱で温かくなる。
生物の密集、さまざまな感染。細菌、ウイルス。アイディア、不安、恐怖、生きる喜び。関係の濃密なネットワーク。
理論物理学者ウェスト「スケール」。平均賃金、レストランの数、特許産出数、GDP、それらの指数は都市の規模と相関する。密接に関わっている。
都市人口の1.15乗に比例する。都市人口が2倍になれば、GDP、レストランの数、は2.2倍以上になる。都市規模がわかれば、レストランの数も割り出せる。
社会的ネットワークの構造。相互作用はサイズよりも速いペース。
リンクの数が植える。4人家族、リンク数は6。8人家族、リンク数は28。5倍になっている。
都市は、熱気を生み出すが、反面、ストレスや犯罪も生み出す(もちろん感染症も)。
オンライン空間にするとフェイクニュースが広がる。
スプーン一杯の土の中には50億のバクテリア。人間の脳の神経細胞は100億。スプーン二杯で人間と同じ情報処理。
人間の力で土を作ることは出来ない。100年で1センチの土。土中の微生物の大部分は実体がわからない。
土壌有機物の80%は微生物の死骸。人間が再現できない。
化学肥料を投入しても土は元気にならない。
岡潔、一日一日をどう暮らしていくか。いまは、来る日も来る日も生甲斐を感じない。
戦争が起きなくても地球というというところに住めなくなる。
植物が育たない。常識が狂っている。
宇沢弘文、社会的共通資本。ローマクラブ報告、成長の限界
現在、地球システム全体の変容。
農村環境、自分を越えた尺度との出会い。都市人口が9割を越えていると、そうした出会いがない。
周防大島。みやた農園、無農薬、無化学肥料、不耕起、野菜畑。肥料は海藻、海水、竹。
命に近い仕事ほどお金が動かない。
野菜や動物との感性的な交流。農業は単なる食糧生産ではない。
生産量が増大するが、他方で生産者が減り続けている。
僕は猟師になった、映画。アイヌイオマンテ。自分達が食べる命と向き合う。
世界では、家畜として、ブタ、10億頭、牛、15億頭、ニワトリ、500億羽が飼われている。人間は、地上に生息する哺乳類の95%を家畜にしている。
工業畜産の暴力。
食肉用鶏(ブロイラー)。一羽当たりの飼育面積、A4用紙以下。太陽も空も目にすることもなく、生後51~55日で出荷される。
工業畜産によって支えられた社会が、人に対しての生の実感を尊重するだろうか。
計算とは、人間が機械を模倣すること。
計算機が人間を模倣する研究。人工知能の誕生。
過去が未来を食べてしまう。
計算は感覚、感性から自由にしてくれる。虚数複素平面に酔って幾何学的解釈を可能にした。意味の生成。
感覚に縛られると意味を求めすぎる。感覚を封印すると認識が無意味の領域に伸びていく。
少女がトラックの前に飛び出す。どうなるか計算する。トラックが少女をはねるとという結論に達する。目の前でその通りになる。
少女を生命として感じなかったから。
人間は人間でない生き物に対する暴力には無関心。言葉(英語)は、人間と人間出ないものに対しては峻別する。
人間でないものは単なる資源。
ネイティブアメリカン、ポタワトミ。自然から愛されているという感覚。
封建社会。家。未来を支えるため。
現代。封建社会からの自由。合意による。未来を失ってしまう。新しく考え出された未来が「進歩」。
進歩しなければならないという虚構。
未来への恩返し。いま、こんなに与えられている、ということに対しての感謝する。

すばる 2021年5月号 しょんなかもち

視点は、一人称一元視点である。
視点である人物がどのような立場であり、どのような人物であるか注意しなければならない。なぜなら、視点の人物そのものが世界を構築しているからである。
冒頭はいきなり股関節痛からである。股関節というと足の付け根、腰、そういうところだろうか。
なぜ、股関節痛かというと、秋の展覧会で自分の背丈ぐらいの書の作品を作っていて足腰に負担がかかってしまった可能性が高い、というのである。
とすると、この人物は展覧会に出品するような書道家、であるということだ。
とりあえず、腰まで痛くなったので、整形外科クリニックに行くわけである。
それなりの専門の医者に行くぐらいなので、普通の住宅地に居住しているのだろう。
時期は梅雨明けの暑い日ということだ。
120分待ちということで、読みかけの本を持ってきてもいるし、待合室で待つのだ。電話であらかじめ確認したりはしないので、それほど、分刻みに予定が詰まっている、というわけでもなさそうである。
待合室の患者たちを見渡すと、自分は比較的若い方だった、とあるが、これだけだと年齢がわからない。高齢者から高校生まで、とあるので、なんとなく、三十代、四十代、だろうか、とは思える。高校生が十代、高齢者が七十代、足して二で割ると四十代、その前、と考えたのだ。
壁には書が飾られていた、とある。やはり、書道家だから、書に目が行くのだろう。
ついでであろうか、医者の証書も掲げられてあった。そこに記されている生年月日を見ると自分よりも十歳近く若いことがわかった。恥ずかしいので老医師にすべきだった、とあるのは、性的な意味で恥ずかしいのであろうか。
その医師の登場である。筋肉質、剛毛、坊主頭、さらに、お風呂が沸きました、性的イメージな気がする。
それらを打ち払うように、レントゲンの予約のみである。一週間後である。
医師は体に指一本触れなかった。納得がいかないまま立ち上がった、のである。
医師の触れなかった肌を七月の太陽が刺したのである。
一週間後、病院に行くと、今度はレントゲンである。技師は男性で、レントゲンの装置を股間に近付けたので恥かしさを堪えたのである。
撮影が終わり、医師の診断。医師の若い肉体にかすかな憎しみが湧き上がって目を逸らしたのだ。ただ、レントゲン写真そのものは恥ずかしいものではなかった。
次はMRIの撮影の予約。
試みに正座で書道をしていいかたずねると、否定された。
子どもの頃から親しみ、20年以上のブランクを経て5年前に再開した書道を諦める気にはなれない。とするとやはり四十歳前後だろうか。
それから、週一で理学療法師による治療。マッサージとホットパットによる保温。試みに、診断名は何か聞いたら、腰痛症だった。結局、なにもわからない。
書道も続け、晩秋にはシカゴにも行った。
再び本格的に傷みだしたのは、年が明けてから。
このまま同じことをやっていても埒が明かない。看護師の知人に股関節の専門医を紹介してもらう。
待合室はえらい混みよう。テレビではコロナのことでダイヤモンド・プリンセス号。十年以上前の火災のことを思い出す。
火災を起こして、今度はコロナ、ということだ。
定期的に通ってくる常連であるらしい高齢の三人の女性の会話。今回の医院のイメージは「老い」である。
三人の老婆の口癖、「しょんなか」。しょうがない、仕方がないという意味の方言。
でも、今度の医師は期待できそう。
手の模型の比喩。手の内部の微細な作り。自分の肉体を医師に託してもいいと思える。鴨志田医師の登場。
60代半ばに見える。威勢の良い紳士のイメージ。
夏からの通院は無駄だった。
骨盤の丸い窪み、臼蓋が小さい。軟骨が磨り減ってしまう。骨を削る手術しかない。しかも、若くなければいけない。
進行性で治るわけではない。これからは股関節を守る生活をしなければならない。
帰り、二年前、岸田劉生の絵画を見に行ったとき左足に妙な痛み、さらに、十年前、義父の法事で正座したとき、ギシギシという違和感。
実は、ずっと前から、感じていたのだ。いまさら、である。
しょんなか、と呟いていた。
義理の母、90歳のトシ子さん登場。丘の上のグループホームにいる。怪我や病気にもめげなかった。
グループホームは丘の上なので坂を上らないといけない。股関節にはよくない。
歩けることの有難さを感じつつ歩かなければならない。痛くなかった頃の歩き方を忘れている。
12年前に結婚してこの街に住み始める。
グループホーム。義母を含めて九人。全員、認知症
チエ子さんにも神経ブロック注射を受けるほどの腰痛の経験があった。
一年前、二カ月の入院生活で家に帰ることは難しくなり、グループホームで暮らすことになった。
会ったときから畏れを抱いていた。46歳、歳が違う。ということは、主人公は44歳だ。ここで初めて年齢がわかる。
チエ子さんは話が抜群に面白い。
心の距離を縮められないまま12年、過ぎてしまった。
認知症、記憶は出来るが取り出せない。焼き芋を食べたことは記憶されている。
何かの拍子に、記憶されている記憶がひょっこりと出てくる。
股関節痛がなかったときの軽快な歩き方もチエ子さんと同じで、ひょっこり出てくるかもしれない。
チエ子さん、焼き芋を食べながら、わたしは、焼き芋評論家やけんねえ、と言うかと思ったら、しょんなかもち、しょんなかもち、と言い出す。
しょんなかもちって、なに?
チエ子さんがいろんなものに絶妙なあだ名を付けていたことを思い出した。
ちょっと高級そうな豆腐、金持ち豆腐。厚揚げを網で焼いて葱、しょうがをかけたもの、天才ステーキ。
みんなのいるリビングにもどろう、と言って行ってしまう。三時のおやつ。
三月、鴨志田医師の二度目の診察。
学校がコロナで休みになってしまったので書道教室の出席率は逆によくなった。
待合室も閑散としているが僧侶がいた。月参りを思い出す。11年前に亡くなった義父の月命日。
チエ子さんは早起きして支度をする。
主人公は、首都圏の仏壇のない家に育ったので新鮮だった。首都圏というと関東プラス山梨県だが、たぶん東京近郊なのだろう。なんでこういう書き方をするのだろう。長崎? と対比しているのかな。
先祖の供養の務めを果たすチエ子さん。神様、仏様、謙坊ちゃん。謙坊ちゃんとは、海外に暮らす二男(隠膳という)。
毎朝、米一合を炊く。ちなみに、一合は重さ150グラム、体積は180ミリリットル、カップ一杯分。二食分ぐらい。
自分が食事を終わるといううことは、神様、仏様、二男が一緒に食べ終わるということ。朝の務め。
親戚には贈り物、寺にはお布施。一人暮らしだが一人ではなかった。忙しか、忙しか、と口にする。
主人公は、憧れと疎ましさを感じていた。
85歳のとき貧血で入院。お札は近くの宮に返して神棚は取り払い、隠膳も作らなくなり、仏壇のみになった。
人工関節にする手術は避けられないかもしれない。
遺伝は関係あるのか聞いてみた。主人公は一卵性双生児で、妹がいるのだ。
鴨志田医師は興味を示すも、結局は、自分の股関節は自分で向き合うしかないという。
治療室での牽引療法。
フィッシャーマンズワーフ、サンフランシスコの観光地。漁師町テーマパーク。気持ちよさそうに横たわるアシカたち。
気を紛らわそうと、しょんなかもちがどんな餅か考える。
バンコクにいる友梨佳に連絡。テニスをしているらしい。友梨佳は一卵性双生児の妹。
さっそく、股関節のことを聞いてみる。まったく平気らしい。
マイペンライ、と言われる。
大丈夫、なんとかなる、という意味(タイ語)。
ひょっとすると、しょんなかもち、とマイペンライは同じかも。
チエ子さん、仙骨を骨折したとき。最初は受け入れられなかった。次第に、しょんなか、と言って受け入れた。
まさか、はがいか、しょんなか。この三つが、マイペンライ
自分の股関節痛は、いま、どこだろう。まだ、はがいか、の段階なのかな。
彼岸入り。商店街は、供物や仏花を求める人たちでにぎわう。暑くもなく寒くもないちょうどいい気温。
門前には市場があり、いつもは墓参の途中で寄っていく。
店も市場も、いまは、再開発のためになくなっている。
市場の角を折れ、路地に入る。結婚する前、チエ子さんは、このあたりに住んでいた。県庁に通うためにこの坂を下った。義父もこのあたりで育った。ふたりで通勤したこともあった。仕事が終わるとダンスホールに通った。
股関節は、納骨堂まではなんとか大丈夫。
義父がなくなって、墓を納骨堂に移したとき、二歳で亡くなった男の子の遺骨はなかった。男の子は、この世から消え、人の記憶からも消えていく。
母方、チエ子さんの実家の墓は小高い山の上にある。さらに上っていき墓に辿り着いた。幸い、股関節の痛みはかすかな疼きのままだ。
いつもと違い、静まり返っている。コロナの影響。
今回はなんとか上ってきたが、秋はどうだろう、来年はどうだろう。
股関節に経験したことのない鋭い痛み。ついに大きな傷がついてしまったのか。
タクシーを呼んでもらい、タクシーまでは、運転手におんぶをしてもらった。
タクシーで鴨志田医師のところに行く。
強い痛みがあったらその意味について考える。
正反対の感覚も含まれる。腰の痛みのあった老婆、痛みがなくなると、寂しか、と言った。
青果店にタケノコが並び始めた。春キャベツ、新玉ネギも。人間がコロナであたふたとしているのに対して、野菜は堂々としている。
年配の女性が杖でやっと体を支えながら果物を見ていた。
なにをしていても、痛みと股関節のことばかり考えていた。
チエ子さんから電話が掛かってくる。しょんなかもちについて聞いてみるが忘れたと言った。
コロナの緊急事態宣言のために、書道教室は休み。展覧会自体も中止になった。足しげく鴨志田医院に通う。
診察室の机に股関節の模型が置いてあった。ちょっと触ってみる。太腿の骨と骨盤はたしかに杵と臼の関係だ。
歩くというのは、餅つきなのだ。
ヨイショー、ヨイショーという掛け声のような音。神社に行ってみる。しょんなか、しょんなか、と心の中で呟いている。
義父の命日に寺のお坊さんにお経を上げに来てもらう。そのとき、チエ子さんを連れてこようと考えていた。
車でチエ子さんを迎えに行く。
家に着くと、チエ子さんは少しずつ記憶を取り戻した。自然といつものソファに腰を下ろした。
読経を終えたお坊さんは、私たちの方へ向き直り、深々とお礼をした。
チエ子さん、突然、お寺の裏のフタミ先生という小児科の先生の話をする。
60年以上前の話を知るはずもないと思ったら、お坊さんは頷いた。
お坊さんを見送ったあと、帰る支度をしていると、チエ子さんは不安に思われた。もう忘れてしまったのかもしれない。
車に辿り着き、後部座席に座らせる。チエ子さんは、きょうはよか天気だね、と繰り返した。
グループホームに到着する。
チエ子さんはみんなの輪に入っていった。

すばる 2021年5月号 流れる島と海の怪物

視点は、三人称一元視点である。主人公の名前は田所慎一。作家であるらしい。
朱音の妹の朱里と別れる時よりも大きなこと、五歳の時に起こったらしい(センターフライでないこと)。
その大きなことは、父の照一、母のるり子の人生も変えてしまったぐらいだった。
すごく回りくどくて、わかりにくい書き方だが、一度にいろいろなことが起こったからだろうか。
まあ、センターフライ、となっているなら、野球ということだ。野球ならチームのスポーツでジョギングとはわけが違う。ギャラリーもいることだろう。少なくともそういうスポーツである。
さらに、卓球のように狭い空間のスポーツでもない。それなりに広いところ、しかも、センターだから外野だ。それくらい離れていれば、声も聞こえなくてよかった、という出来事である。
それは、1977年初秋に起きたということだ。日曜日の会社関係の草野球。
父の照一の守備はファースト。そこで亡くなったらしい。ただ、そのときの状況は、映像というか写真だろうか、そうしたものは、母のるり子が焼いてしまったので、るり子の話を聞くしかないのだ。なぜ、焼いたのかというと、最悪の思い出だからだ。
トネリコアオダモ、バットの素材になる木。
それでも、野球やりたい、と慎一が言うと、るり子にベランダに追い出される。祖父の寿六も生前は付き合ってくれた(一緒にベランダ行き)。
父、照一が亡くなったので、祖父、寿六が来て、一緒に住んでくれていた。寿六は、昔、中国大陸に戦争に行っていた、などと話していた。
たまたま腕に銃撃を受けて、早くに山口、下関に戻ってきた。運がよかった。福子、るり子が生まれる。
のんびりしていて、負傷した腕は伸び切らず、妻が世話してくれた。
それなりに空襲を受けて大変だったが、なぜか、二発目の原爆は、小倉ではなく長崎に落ちた。原爆の歴史的事実を忘れることは出来ない。
偶然助かったが、恐怖だけは残る。偶然だからこそ、恐怖なのだ。
偶然か必然かという煩悶。偶然にヒトラーが登場、ヒトラーを倒すために原爆の開発、その原爆は小倉に落とされるはずだったが、偶然に長崎に投下された。
偶然の恐怖、あれは偶然といえば、責任はなくなってしまう。慎一が小説家になったのも偶然?
なのに、朱里は主体性と必然性の権化。
小説自体も作家である慎一の必然、さらに意志、故に、責任を持たなければならないはず。
まるで、意志あるかのように戦中、戦後を生き抜いた寿六は下関に戻ってくる。
そんなことを知ったのは、照一が亡くなったあと。実感したのは葬儀中、寿六、福子の姿を見たとき。
るり子は、息子である慎一が手を握ってくれたことに対して、優しい子だと思う。息子の存在、夫の死の真相を知らなかったから。冒頭に戻る。
慎一は何気に母の手を握っただけ。そのとき、魚が落ちてきた。
母は離れていったので、伯母の福子に、魚が落ちた、と言った。
福子は、魚に気付いたかもしれない。

新潮 2021年5月号 ツボちゃんの話

エッセーである。とすると、その前提として、動かしがたい現実が存在している。とはいえ、科学の論文でもないので、その現実は論証されるほどの堅固なものでなくてもいいのである。
内容は、坪内祐三さんという方についてである。ただ、読者である自分は、坪内祐三さんについて、まったく興味がない。ということで、坪内祐三さんについて云々という第一章から第四章については触れない。
第五章 人間オタク となっているところから。
つまり、坪内祐三さんは、オタク世代、その中でもオタク第一世代ということらしい。
ちなみに、他の例として、大塚英志さん、岡田斗司夫さん、宮台真司さん、みうらじゅんさん、山田五郎さん、中森明夫さんの名前を挙げている。
この中で、大塚英志さんというのはまったく知らない。wikiネタだがだいぶ有名だったみたい。ひょっとしてと思って部屋の中を探すと、オタクの精神史みたいなタイトルで、最後がエヴァンゲリオンで終わっている新書があったのだ。見てみると、果たして、大塚英志さんの書いたものだった。といっても興味がないので再びどっかにいってしまったが。
で、本題に戻るけど、坪内祐三さんというかたは、第一世代オタクとの経験や情報は共有するが、自分はオタクではないと言っていた、ということだ。つまり、行動は明らかにオタクなのだが、それを指摘されても、オタクではないと言い張っていたらしい。
いまだと、まるで意味不明なやり取りだが、昔の状況を考えれば、確かにそれはあるかもしれない。
そう、昔は、オタクというのは、否定的なイメージだったのだ。否定的イメージの前史はネクラだったんだろうね。
著者によると、「人間オタク」であることは認めたらしい。いつ認めたのか年号が記されていないので、わからないが、おそらく、最近のことだろうと思う。
では、「人間オタク」とはどんなものだろうか、ということ。
たとえば、ある特定の力士である。その力士から親方、行司、呼出、床山等と広げていき、エピソードを探り出すのだ。また、ある政治家について。その政治家が東大に受かったときの合格体験の記事に辿り着く。
そういった事例のような話題が続き、最後に、贋作男はつらいよというドラマ。そこで、主役を演じた桂雀々さんについて。この人が昔、花より団子という名前でテレビに出たことがある、ということだ。で、その文章が、坪内祐三さんの絶筆になったのだ。ちなみに、この花より団子ネタはまたしてもwikiに載っている。
とはいえ、結局、人間オタクって、なんだ、というと、実はあんまりよくわからない。
おそらく、坪内祐三さんという人は、雑誌三文記事オタクだったのではないかと思う。
まあ、それはそれとして、では、なんで、オタクではないと言っていたのだろう。その前に、どの点がオタクの否定的、あるいは、非難されるべき性質なのか、ということである。それは、社会性がない人、ということだと思う。
たとえば、オタクに似ているが、そうでない人種に、コレクター、というのがある。オタクとコレクター、どこがちがうのであろうか。簡単に言えば、社会性を保ちながら様々なものを蒐集するのがコレクターである。他にも趣味人、好事家なんていうのも、同じだろう。オタクは、社会性を犠牲にしてしまうのである。こうなると、「依存症」に近くなる。「人間オタク」なら、さしずめ、「個人情報特定マニア」、の方が合っている。
以上のことから、ここでいう「人間オタク」坪内祐三さんというのは、つまり、雑誌三文記事を渉猟しているときは、社会性が保てないぐらいに熱中してしまうが、それ以外のことは、ちゃんと社会性がありますよ、ということを言いたいのである。著者もおそらく、その考えをそのまま踏襲しているのであろう。
(ちなみに、オタク第一世代と書かれているので、他はどうなのだろうか。ネットからオタク世代の区別を拾っておく。オタク第一世代はアニメ、新人類 オタク第二世代はゲーム、団塊ジュニア オタク第三世代はインターネット、オタク第四世代、オタク第五世代、わからん、ということだ)
とすると、かつて、オクタ(第一世代に限らないが)というのは、社会性と対立しているものだったわけだ。だが、その構図がいまは存在しない。
いまあるのは成果主義である。オタクだろうが、マニアだろうが、依存症だろうが、破綻者だろうが、成功すればいいのだ。その逆に、社会性があっても、モラリストであっても、人間としてできていても、失敗すれば、ただのクズでしかないのだ。

オタクが多様化を許容する社会に認められたのでもなく、理解ある優しい人々に受け入れられたのでもない。その背後にあるのは、酷薄な成果主義の登場に他ならない。
そう考えると、坪内祐三さんというのは、オタクを否定したものの、実は最後の真っ当な人だったのかもね。

新潮 2021年5月号 道化むさぼる揚羽の夢の

こういうのって安倍公房みたいなのかな。小説をほとんど読まないので何とも言えないが。
小見出しからである。本当はタイトルなのだが、そこは置いておく。
羽化する男たち、とある。また、番号が1と振ってるので、最初の順番ということであろう。
羽化、というのは人間はしないものである。羽化するのは昆虫である。でも、男たち、とあるので、人間なのである。しかも、女性ではなく男性なのである。とすると、「羽化」というのは、生物学的な現象ではなく、なんらかの比喩だとわかる。なぜ、男性なのだろう。昨今は、男女平等だったりするが、現実的にはそうでないと考える。ここでいう「男」というのは、社会的な意味での男性なのだろう。ならば、性の違いではなく、社会的な機能としての「男」なのである。
その男たちが蛹の形の拘束具に閉じ込めらえているのである。夢を見ることしか出来ないのである。蛹というのは、小見出しの「羽化」に対応しているのであろう。その蛹が拘束具なのである。つまり、本来動けるのに、無理に動けなくさせられているのである。動けないので夢を見るぐらいしか出来ないのである。もう一つあった。糞尿を垂れ流すの出る。さらに、この蛹の拘束具は金属製なのだ。つまり、木のような有機的な温かみがないということだ。無機的に冷たいのである。温かいのは自ら排泄する糞尿ぐらいか。こちらは生身の言葉ということか。
主人公は天野正一という。こうした状況の人は、どうやら、彼一人ではないということだ。さらに、そうした人たちは、地下工場に召集された機械工となっている。機械工なので工場なのだが、その工場は地上ではなく地下にあるらしいのだ。しかも、召集されたのである。地下、というのは、暗黒ということもあるが、洞窟などではなく、つまり、閉ざされた空間ということであろう。召集というのは、応募なのではなく強制的に集められる、ということだ。しかも、召す、というのは、上の立場の人間が下の立場の人間に対して、行使する行為である。そうした無数の人々が、一定の間隔を置いて、鎖で天井に吊り下げられているのである。一定の間隔、というのは恣意的な力に寄ることを感じさせ、また、お互いの意思疎通は禁じられていることでもあるのだろう。宙づりなのは、たとえ蛹を脱出しても、墜落するしかなく、つまり、拘束の度合いがより強力だということだ。さらに、その運命がさらに強く拘束したものの手に握られているわけだ。
一日に数度、天井のスプリンクラーが作動して、これらの男たちの喉を潤すらしい。また、このスプリンクラーは防火用とある。つまり、もともと、通常は、天井から蛹を吊り下げているわけではないということである。たまたまなのか一時的なのかはわからない。
そんな彼は、最初こそいろいろ考えたらしいが、いまでは、諦めて飛翔の夢しか見なくなっている。とはいえ身を捩るとぶらぶら揺れて、それは羽化の時期を予想する行為であるらしい。またスプリンクラーの水は排水かもしれないということだ。これは、蛹の男たちに期待はしていないということだろう。
数日経って、蛹は床に降ろされる。数日なのは、水だけだからだろう。糞尿を排泄しているとすれば、その直前はなにがしか食べてはいたはずだ。蛹に押し込んだ、地下工場の監督官たちが、今度は解放するのである。地下工場というのは、機械工が働く工場なのだろう。そこの監督官が蛹も管理しているらしい。また、蛹は正面が左右に開くようになっているらしく、錠が掛けられているらしい。ということは、羽化とあるが、ただ、金属製の蛹をぱかっと開けて出てくるだけなのだ。また、監督官は機械工の十分の一にも満たない人数であり、鉄の棒で統制をしているのである。とすると、組織としては、少数の監督官と多数の機械工、ということだろう。
監督官は鶯色の制服とある。おそらく鶯色というのは春をイメージしていると思われる。さきほどの蛹に入れられていた者たちは、その蛹を越冬蛹と認識していたことと繋がっている。
監督官たちは、地表近くの広間からさらに地下へ機械工を追い立てる、ということだ。とすると、蛹が吊るされているのは、広間であり、地表に近いのである。つまち、通常の世界に近いということであろう。
コンクリートの床を歩き、両開きの扉を出て、下りの短い鉄骨階段を下りると、錆び付いた鉄の引戸があり、その先に通される、とある。床はコンクリートの打ちっぱなしである。あまり人が滞在するようにはできていないのである。両開きの扉というのは、大きなものでも出し入れできるようになっているのである。短いというのは、この広場とはあまり距離がないということだろうか。鉄骨なのは、やはり、あまり、人が上り下りするようにはできていないのだ。その先の錆び付いた鉄の引戸は、広間の扉とは逆に、なにかを出し入れしやすいようにはできていない、さらには閉じ込めてしまえるような扉ということである。
入った部屋は細長くて両側からホースを持った監督官たちが水を浴びせるのだ。その部屋を通過すると、再び鉄骨階段を下りていく。さらに巨大なする罰上の空間に入り、壁に沿ってらせん状に降りていくとある。これは抗えぬ運命的な下降を示しているのかもしれない。円筒ではなくすり鉢と強調している。
すり鉢の底は楕円形をしていて、作業机が機械工の人数分用意されておる。監督官は楕円の中心に集まり、機械工はその周囲に立つことになる。この処遇から、機械工たちは、自分たちが不正な人間と思ってしまうらしい。不正をしたと思い込んでいるので、みなは許しを請う有様なのである。
一方、監督官たちは段ボールの箱を開け始める。中には、どうやら機械工の仕事着が入っているようだ。それに気付くと、みなは喜びの余り飛び跳ねたりする。
作業着というのは繋ぎなわけだが、なぜ、機械工が喜ぶのかというと、監督官の言葉「おまえたちの翅だ」ということから、つまり、蛹から蝶になるからであろう。つまり、蛹から繋がっているわけである。作業着の胸のところには、住む部屋番号が刺繍されてある。作業着を貰い次第に団地へ行って部屋へ入るということらしい。ちなみに仕事は翌日からだ。
団地は真下でエレベーターで降りる。何度も監督官は、作業着を糞で汚すなと注意している。糞のような考えを持つなということか。あるいは、持っても、それを作業中に出すな、ということだろうか。
小見出し、蝶となり蝶を拵える とある。1章で、蝶というのが、機械工になって作業をすることだとわかるのだが。
居住地である団地は工場のさらに下にあるらしい。またドーム状になっていて、工場と団地の空間はくびれているらしい。居住空間と作業空間の隔絶を示しているのだろうか。
翌朝になり、天野は広場のベンチに腰を下ろしたりする。蝶に成れた喜びをかみしめているのだろう。それにしても、なぜか、子供返りしたようにも感じるのだ。しかもブランコと滑り台が設置してあったりする。
三人の機械工が現れる。初めて同僚と言葉を交わすわけだ。ところがそのうちの二人はほとんどしゃべれないらしい。それは蛹に閉じ込められたおかげであるらしく、しかも、そういうことはあるらしいことも共有されているらしいのだ。自己紹介のとき、一人は小川道夫と名乗り、二人は、シャーナとシャーンということだった。しゃべらないので、小川が勝手に名付けたのだ。三人とは明日会う約束をし、さらにブランコ遊びの約束もした。やはり子供返りしているのである。
始業は八時である。作業机は団地棟と同じに配置されてあるらしい。仕事は蝶を作ることである。楽しく仕事をしていると、巡回している監督官に棒で殴られる。誰かが殴られても、自分も殴られるので各々は知らないふりをする。天野もまじめに仕事をしていたが、結局殴られた。なぜ殴られるのわからない旨訴えたが、やはり殴られるのである。
作業が終わって、部屋に帰る。蝶に成って蝶を拵える、それで満足なはずだが、そこに無意味な制裁、暴力が加わると疑念が湧き上がってくる。
そういうわけで天野は、仕上がった蝶を引き出して机に並べてみるのだった。たちまち、天野は自身が蝶に成り、そんな生活を受け入れるのだった。
翌日、例の三人と天野は公園のブランコで靴飛ばしをやっている。公園の草木はすべて金属製、砂だけが本物である。つまりはまがい物なのである。
楽しい時間は終わりで、そろそろ、始業時間。そろそろ工場に行こうとしていたとき、天野は、ふいに、小川に、仕事中、殴られることを言ってみるのだった。
すると、たちまち、三人は、いままでの子どもらしい楽しい様子が、一変する。無垢な子どもではなく、猜疑の目付きで天野を見詰めている大人である。なぜかと言えば、天野が監督官で探りを入れているのでは、と疑っていたのだ、とは小川の答えであった。
仕事が始まると、やっぱり、監督官が巡回し、あちこちから殴る音。天野は、思い切って、一人の監督官に聞いてみる。なぜ、理由もなしに殴るのかと。監督官は答えた。仕事だと。殴りたくなったら殴る、それが監督官の仕事なのだ。自由で殴っているのではない。そうして、天野を殴るのであった。
仕事が終わり、部屋に帰ると、初めて逃げ出すことを考える。自分は蝶になどなっていないのではないかと。でも、その決心はつかなかった。
3章は芋虫たちの楽園、となっている。芋虫は蛹の前の姿ということであろうか。
天野は、蝶を作っている振りをして、芋虫を作るようになっていた。さらに芋虫の餌の葉も作っている。それは工場からの脱出の代わりであった。
遊び仲間は二人、古谷、中川が加わり、六人になった。ケオドロ遊びをやる。ただ、相変わらず殴られ続け、ついに、天野は、部屋を楽園に変えるべく、天井を空に見せるために青く塗り始めた。この楽園のために朝のリンゴも美味しく食べることが出来た。
朝、いつものように遊んでいるとき、天野は閃くのだった。この芋虫の楽園に、シャーナとシャーンも参加してくれればいいのに、と。
なぜか、たちまち、シャーナとシャーンは、芋虫の楽園を気に入り、天野の部屋にやってkるようになった。しかも、芋虫、葉作りもやってくれる。さらに、名前もピリラ、ピレロに変えてくれた。
4章は、再び蛹化する男たち である。まあ、そのままの内容だろう。
しばらくすると、楽園である天野の部屋に監督官が押し入った。殴られ、楽園は破壊され、三人は蛹行きとなった。
2章1節。小見出しは節だった。アルレッキーノの誕生、となっている。内容はそのままだろう。
蛹の中で、天野は道化のアルレッキーノになったらしい。なんで道化かというと、芋虫パジャンから作業着に着替えて、鏡を見たとき、道化のようだった、と書いてあるから、そこからであろう。
蛹から出てきたときに、監督官の前で踊ってみたりすると、果たして、監督官たちは笑ってくれた。しかも、殴られることはなかった。しかも、仕事中も踊り出す。たちまち、監督官っちが集まってきたが、やはり殴られることはなかった。機械工は殴るが、道化は殴るかどうかわからなかったのだ。これって、ひょっとして、ドゥルーズのいう、生成変化なんだろうか。機械工の天野は監督官に殴られるが、道化のアルレッキーノは殴られない。
2節 二人きりで試行錯誤する もう、タイトル通りだ。この二人というのは、天野とアルレッキーノである。
3節 劇団員が増えていく タイトル通り。道化が順調になって、しばらくすると、小川とシャーナとシャy-ンが部屋にやって来て、道化の中になった。小川はペドロリーノ、他はピリラ、ピレリ。また、古谷、中川も加わる。
4節 旗揚げ公演 人数が増えたので演劇になったのかな。なかなか調子がよくなってきた。
5節 天空座が完成、道化は退場 うまくいってきたので、野外劇場天空座を完成させる。達成感があるので、逆に、天野、自分の役目は終わったのかなと、燃え尽き症候群みたいになっている。そこへ、野村という男が現れ、野村の部屋に招かれる。なんと、野村は機械工ではなかった。街への秘密の階段へ天野を導いたのだった。
3章1節 蝶の生き死に 機械工が作り続けている蝶はどうなっているのやら。
天野は街で蝶を拾い集めている。階段を下ったので、街というのは、工場や団地よりも下にあることになる。
天野は、もう殴られることはなくなったので、道化になる必要はなくなった。
機械工が懸命に作っていた蝶は、この街のためだったのだ。
機械工でも道化師でもなくなった天野。そうなると、アルレッキーノも天野も存在しなくなるのだ。
蝶の調査書を役所に届けに行く。そこには、野村と丸尾がいる。
アルレッキーノ復活。
とりあえず機械工も道化師も意味があったが、蝶の調査員は意味がない、からかな。嘔吐するというのも、なんだかベタな展開かなあ。
獏たち、蛹の夢を平らげる  夢といったら獏か。
浮浪する揚羽の道化  揚羽が道化になっているのか。混ざってしまったのかな。
昇天の日 で、結局、昇天か。
野村が天野に病院行きを提案。天野は嘔吐。ここらへんはフーコーかな。
ついに、天野は自ら蛹に入ることを要求する。蛹に入って昇天。
機械工の天野パート、道化師のアルレッキーノパート、存在意義を喪失したパート。骨格が透けて見えるような感じで、これなら普通に哲学の書籍を読んだ方が楽しいと思える。とくに存在意義喪失パートは無理があり過ぎ。カフカにもなっていやしない。